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コラボモンスター観賞文又は表層批評 [映画 ]

昨夜 渋谷の円山町にあるオーディトリゥムにて。
開場20時45分 上映21時~22時40分?

西山洋市監督 『kasanegafuchi』27分
古澤健監督  『love mashine』 27分
高橋洋監督  『旧支配者のキャロル』47分

短篇映画3本連続上映のスタイル
☆以下文章中敬称を略することをお許し頂きたい☆

西山と高橋は私と早大シネマ研究会の仲間。
古澤は同姓同名のCМディレクターの大先輩がいらっしゃるが
その古澤健さんは今 青山でbarの店主である。
別人28号であることは事前に知っていた。

『kasanegafuchi』
出演者に覆いかぶさるような木々の仕草や
山奥の沼だか湖が 水面を鏡にのっそり現れる振る舞い。
開巻から按摩笛がピューヒャラ鳴り響く。
私は 西山が つげ義春化しているようで
少し身構えてスクリーンと対峙していた。
会場で配られるライナーツノオトは事前に読まない性質なので
私はそのまま つげ義春の漫画を読んでいる気分に
多少の居心地の悪さを覚えながらも 寧ろ
つげ義春の師匠である水木しげるが原作かな?と思っていた。
そして同時に 漱石の『夢十夜』第3夜
六つのこどもを背負っていた。ではじまる前世の因縁噺を
連想していたのも確かな事である。
帰りの電車の中でライナーツノオトを読むと
原作は三遊亭円朝の『真景累が淵』であった。
つまり 漱石の第3夜と同じであろう。出処は。
因みに 漱石の夢十夜中 第六夜は 明らかに
荘子・達生篇「梓慶一節」のアダプテーションである。

悲劇としてのギャグを西山は映画にしているという。
ホークスは 喜劇とは懸命に悲惨な状態を凌ぐ姿だと
定義し ホークスの演出は敢えて俳優を追い込み ひたすら
本気で走らせたり懸命に異常な長台詞を早口で喋らせたりしたという。
だが 西山は 映画のメタファーとしての定義を
悲劇としてのギャグとしたのである。小津の映画をギャグだと感じる人もいる。
そうしてパロッて遊んでいた人は大勢いる。
賢明な西山だからそんな事を定義したいわけではない。

だからこそ 私が上記の如く表層的に感得したのは
円朝でなく、つげ義春だったのである。
他の2作が女優の映画だったのに 
本来「女の子にはあくまでも優しく」主義監督の西山が
そちらをお留守にしたのは どうしても 痣に拘ったからだが
それはちと寂しいのであるよ。
西山が20代で監督した
ドラマドスの題名は失念したが ロラン・バルトの
恋愛のディスクール』に在る離人症という精神障害を
基にしたサイコサスペンス恋愛ドラマを知る者としては
円朝よりも 志ん生の艶笑噺を現代の若者の群像にあてはめて
映画にしてもらいたいという欲求が 観た後 強烈に沸き起こった。

又 主人公・とよが隠れる山奥の一軒家は 崖と細い車道に
並行して建っていた。あのロケーションがあって
なぜ西山らしいゴダール的なフィックスロングショットで
崖と車道と小さな崖と家屋を左から順に真横のアングルでとらえ
俳優たちを縦横無尽に走らせたり、転がしたりしなかったのか?
そういう疑問が 残ってしまった。

『love machine』
本来なら西山監督が得意とする題材はこっちか?
この話も淀川vs蓮實&山田『映画千夜』にあった
キング・ヴィダーの幽霊女噺を思い出させてくれた。
そしてその同じ噺から肝心の幽霊惹起を排除して
小津安二郎は『早春』を撮った・・・・と私は解釈している。

まず 小島可奈子さんという女優が ウルトラセブンの
アンヌ隊員=ひし美ゆり子さんに見えたのは私だけだろうか?

ラストショットの夕陽と波と風が ただ単なるフォトジェニックだから
素晴らしいのではなく 見事にこの喜劇だか悲劇が
太陽と海と共に蕩けちまった瞬間を画として成立させている
ショットだから素晴らしいのである。
あの夕陽と富士山と風と波を待ち続けたとしても才能だし
偶然だとしてもその運の良さも又 誇るべき能力である。

『旧支配者のキャロル』
小島さんもそうなのだが この映画のもう一人の主役を演じる
中原翔子さんもひし美ゆり子さんが女優復帰したんかいなと
冒頭でギョッとしたのも 私だけだろうか?

まぁそれはそれとして。高橋がラナーツノオトに書いている事とは
全く別個の事を 私は観ていた。感得していた。監督ではないぞ!
つまり題名から私は 数学者のルイス・キャロルが浮かび 成程
不思議の国のアリスの原作者はロリコンの上サディストだったということを 
松本若菜さんという美形の女優を使って物語ったのだなと感心した。
こんな事を書くと「又 勝手な思い込みを」と高橋は怒るだろうが
いいや 書いちゃえ。不思議の国のアリスってどうしても変態というか
エェェッという不気味さが 潜んでいるでしょ あの物語には。
そーゆー意味でコワイ映画でもある。
一方で タルコフスキーの『ノスタルギア』にある
あの灯明往還を長々と繰り返すくだりにおける透明な閉塞感が
妙に画として成立していて あの味わいがあって素晴らしいし
ヒロインが 階段を駆け下りたり駆け登ったりするショットが
川島雄三と成瀬巳喜男が共同監督した『女が階段を登る時』の
シンボライズされた美術セットではないのに
どういう具合にだか 私の目に表層として彷彿としたのは
女と女の争い物語だからという短絡的な連想だとは思えない。
高橋洋のことだから 映画的教養として自然にそうしてしまうのだと思う。

※上記文中 女優方々の敬称を略さなかったのは
私も西山君、高橋君そしておそらく古澤君と同様、
川島雄三の「あくまでも女の子には優しく」主義が
人生の振る舞いだからである。実際のところは
単なるどスケベマンではあるが フェミニストではない。
そういう生活信条のようなものなので 
重ねて御寛容願い奉ります。

※ 各監督と知己なる方々は 各監督に連絡を取って
前売り券を特別購入する特権がある。この機会に
その特権を行使することで 夜9時に渋谷のラブホ街で
コラボモンスターなる映画の試みを鑑賞するのは
浮世の沙汰に、ある清涼を得るでしょう。
勿論 映画監督を目指す若い世代は 映画美学校という
映画監督養成講座の実力を見聞する又とない機会になりましょう。

5月25日土曜まで開催。


ジョン・ゴールトなんていらない! [試論]

フリーエネルギー装置を 米国人のジョン・ゴールトが発明した。
なんて事はフィクションであって 実際に在るべきではない。
如何に人類が壊滅的な打撃を自然から受けても
フリーエネルギー装置は 現在の人類の想念には「毒」になる。
しかもそれが 米国だろうが我が国の発明家によるものであっても
その装置を「地球と互いに愛し合う」目的があるにせよ
必ず利権を以て 争いや殺戮が起きるだけだ。

その結論を見出すために 私は『肩をすくめるアトラス』を
読むように導かれたのだろう。
そして 私は『リヴァース・ショット』という小説のおしまいに
眠れる預言者となった伊勢実時に その装置を
「思いやりの度合い」によって発電量が異なると言わせた理由と
その意味合いを明確にするために!

『灰色の肌を持つ異星人~グレイ・スキンかく語りき』とでも
題名すべきアドリブ小説をこのブログに書いたけれど
その中で 異星人が贈るフリーエネルギー装置を 人類が模倣して
大量生産できるように書いたが それは 間違いだったかもしれない。

やはり『リヴァース・ショット』に書いたように
愛という目に見えないエネルギーによって作動する装置にしなくては
人間は 悔い改めもせずただ経済至上主義を棄るなり改めるなりせず
却って想念の退化を招きかねない。人類が進化させなくてはならぬのは
想念である。思考と感情の力を思い知るという進化である。

フリーエネルギーとは「愛」でよいのだ。
目に見ない「思いやり」や「愛」に反応し それを電力に変換する装置を
人類が手に入れたとしても 産業界の電力を賄うことはできないという
制限が あるべきなのだ。
ハイエクの金融市場自由主義に 金融超過貸出の制限が予め論じてあっても
その制限を無視してリーマンショックとは何事だ・・・。
自由にも制限付きでなくては 道を簡単に踏み外す。自由は高くつく!
しかもその愚挙を経験則から学べないのは 莫迦でしかない。

現在の人類は 飽く迄 再生可能エネルギーを追究しなくてはならない。
もうこれ以上地球を掘削し 自分たちの欲望のためにだけ
地球という惑星を搾取する振る舞いは終焉させなくてはならない。
家庭用電力ならフリーエネルギー装置で賄える。
あたりまえの愛に溢れる家庭なら 又は個人ならその余剰電力を
電力会社に売れるかもしれない。だが産業用の発電には
儲け主義でない病院や養老院、養護施設以外には発電不能であるべきなのだ。
産業に関わる電力は 再生可能エネルギーで賄うべきだ。
日本はこんな狭い国土なのに 海岸線の長さは世界6位である。
つまり「波と潮流発電」が最も効率よく産業界の電力を供給するだろう。
風力や太陽発電は 日本向きではない。国土の表面積に比例する事を
鑑みれば明らかだ。
波と潮流による発電システムは 同時に津波や海底断層の探査システムにもなる。
浪間に浮かぶ発電装置が 同時に我が国土の弱点を補う事も為す方がよかろう。
そして太陽発電開発で国も企業も『蓄電システム』の研究は進んでいるはずだ。
寧ろ『蓄電システム』開発こそが国家&産業共同体が求める利潤を
産みだすと考えるべきだろう。
メタンハイグレードを掘削する?そんな事をして本当に大丈夫なのか?
そのメタンハイグレードが 地球の磁性磁場形成の基盤だったら
どうやって原発すら廃炉にできない科学レベルの人類が 失敗を埋め合わせられると
言えるのだろう? 
我が国が資源大国らしき振る舞いができるようになるとしたら
それは 前にも書いたけれど 藻・油田だけだろう。
瞬間氷河期が来たらお手上げだが ミニ氷河期は近い将来 やってくるだろう。
その節に備えて 藻・油田開発をした方が 無難じゃないか。
もしメタンハイグレードが人類に必要な物質だとしたら
それは おそらく たとえば富士山直下の活断層に注入して大地滑りリスクを
1000年なり100年なり延期する可能性だろう。その間に 地滑りで土砂災害を受ける
地域から住民の移住計画や新幹線の経路変更するなんて事に役立てるというのなら
フィクションだとしても受け入れ易いだろう。
無論 今のところ似非科学でしかない言質である。

それこそ 灰色の肌をした異星人でも現れて 
メタンハイグレードを手にした東大教授の頭を一発しばいて
「アホか ボケぇぇ こんな大切なもんを発電燃料にするんかい 
 ワレぇ 地軸がいきなり10度傾いたら誰が責任とんねん? 」
テレビでやってくれたら さぞかし話は早いだろう。

現実と虚構がこの文章に織り込まれている。
だがジョン・ゴールトなどどの国にも出現すべきではないのだ。
フリーエネルギー装置は おとぎ話のように
我々人類の想念の進化に寄与すべき存在として 現れるべきなのである。
そして 世界中の原発を廃炉にする技術を果たして人類単独で
開発できるだろうか? つまり「異星人など架空のばか話」ではないのだ。
それが 宇宙の真実なのだ そういう想念の進化が
虚構でなく我々の目前で披瀝される時も おそらく近いだろうと
私は 感じている。いや 願わずにいられないだけなのかもしれない。

 大学時代、唯一真面目に予習復習をした
ハイエクのゼミは 私の脳内で滓のようにしか残っていない。
それを恥じだとは思えない。寧ろ なんでハイエクに…という
想いの方が強い。しかし ジョン・ゴールトなんかいらない!と
私が叫ぶべき者であることを自覚するには ハイエクの
リベラリズムの考え方を一番頭が柔軟な時に対峙しておくべきことだったのだと
『ハイエクとケインズ』なる書物を読みながら思い直してもいる。

☆ 今日は溝口健二の生誕114年だったのでミゾグチとフローベルの
  マダムボヴァリーの縦構図 そして 同小説の
  横構図を 急逝したギリシャのミゾグチ・アンゲロプスに
  解題する文章を書こうと思っていたが それは後日に。

そして 明日は久しぶりに早大シネ研の友人たち
(西山洋一監督と高橋洋監督)の
短篇映画を鑑賞しに夜の渋谷にくりだしますので
そちらの感想文の方が 早くに書くでしょう。


デイアフタートゥモローの雹 [映画 ]

先日関東地方に ゴルフボール大の雹が降りましたね。
東京には降りませんでしたが 竜巻注意報が出ていました。
テレビ報道でその雹を目にして思い出したのが
映画『デイアフタートゥモロー』。
東京千代田区に野球ボール大の雹が降るシーンでした。
しかし 神田なのかあの街は・・・。
『ブレードランナー』のセットの残骸を集めて拵えたような
変なトウキョウだった。
『デイアフタートゥモロー』の理屈によると
地球温暖化によって 北極の氷河が突然大きく崩れ
大氷河が一気に海に溶け込み 急激に潮位が上がり
更に超大量の氷河の淡水が溶け込み
塩分濃度が下がって 上昇気流が起こり易くなって
巨大な低気圧が北半球に数個同時発生して 潮位の上がった
海流に更に豪雨が降りそそいで 途方もない大津波と
爆弾低気圧による 瞬間氷河期到来 。

瞬間氷河期到来というのが 判ったようで判らん。
ただシベリアで発掘?されたマンモスは
その姿かたちが当時そのままであるばかりでなく
口や胃に食べていた物がそのまま瞬間冷却されたとしか
思えない状態だったというのは 映画でも紹介されていますが
まぁ 学校でも習った記憶があります。

アイスボールになる必要もなく 瞬間氷河期到来は
ありうるのかもしれませんね。

この映画をDVDで観ている時に 私は今から40年前 私が中学2年生の時に起きた
未だに信じられない光景がいきなりフラッシュバックしてきた。

中学校の朝礼だったと記憶している
突然 上空が真っ暗になり 騒然とした。間髪を入れず
空から大粒の氷塊が降ってきて大パニックになった。
生徒も教員も一斉に校舎に逃げ込んだ。そして更に我々の度肝を抜く光景が
我々を恐怖のどん底に陥れた。 大きな氷塊が降りそそいだ後に
なんと大きな肉の塊が校庭に激突したのであった。
空が急激に晴れあがり 校庭の片隅に残された赤い肉の塊を
呆然と見つめている私たち。誰もそれに近づく気が起こらなかった。
皆 校舎の2階から窓越しに眺めていた。
数分後に消防隊員だったか 自衛隊員だったが 処理しに来た。
後日 学校からの説明は 米軍機か旅客機の落し物だったと・・・。

氷塊が頭にあたって失神したとか擦過傷を負った者もいなかった。
なにしろほんの数分の出来事だった。肉塊で度肝を抜かれ
あの肉の下敷きにならなくてよかったという妙な僥倖を
子供たちが口にしていたのも 変だったが
すぐさま 処理に来た消防隊員だか自衛隊員だかが
余りにも急に現れ 素早く処理していったのに
私が疑念を口にした次の日、学校からの説明の直後だったが
その怪奇現象を誰も語らなくなったのが 更に変だった。

今思うと『メンインブラック』に出てくる記憶を抹消するライトを
我々はイルミナシオンされたのかもしれない。
だがして 私だけは 40年経っても私の記憶からその光景を
抹消させていない。・・・・だとしたら厭だなぁ。

そしてそろそろ日本では相変わらず異星人だった
(テレビCМBossのことです♪)トミー・リー・ジョーンズが
ダークスーツに身を固めスクリーンに還ってくる。
時代は40年過ぎて 異星人などのオカルト(隠されていた)に
光りが与えられるイルミナシオンの時が来ているのかもしれない。
人類の科学では解決できない問題が 起きてしまっていますからね。
原発の廃炉の技術は、原発事故終息の技術は・・・本当に現在あるのだろうか?


平清盛と溝口の新・平家物語 [映画 ]

溝口健二の『新・平家物語』をDVDで観た。
綺麗なプリントで 音もリップシンクロが
やや気になったけれど 牛車の車輪の軋み音まで
アフレコで録音したんだなぁと デジタルリマスター版の
良さを堪能致しました。
そして そう! 溝口のアングルは立派なのだ!
ワンシーンワッカット主義を棄て
ハリウッドのアクション繋ぎのスムースは見事。
ローアングルも多用しているが ちょい目高のカメラ位置も
床の線にまで細心の注意を払っているあたり
黒澤明を凌ぐ群衆シーンのカメラワークは
オーソン・ウェルズの『フォルスタッフ』の戦闘シーンに
匹敵する絵画的な教養の高さが冴えわたる。
木暮美千代の胸の谷間を強調する変な衣装が
時代考証に凝りまくる溝口らしからぬとも思うのだが
ボロボロのプリントで20代の時に観たときは
全く気にならなかったのだが。
ベネチア映画祭でちょっと分かり易いエロチシズムを
サーヴィスしたのかと 邪推を愉しむ。

この『新・平家物語』をご覧になれば
大河の『平清盛』を否定的に語る事もなかろう。
寧ろ 吉川英治原作よりも野心的で説得力のある展開に
関心するだろう。
ただ 大河の『平清盛』のディレクター達が
用いる高いカメラ位置から少し見下ろす(伏せ目)の
アップショットの多用は 覗き映像にしか見えないと
趣味の悪さを敢えて汚い言葉で注意したい。
ワンシーンワッカトができるということは
ショットバイショットの繋ぎをアクション繋ぎだけでなく
アングルの流れを把握した 撮る前、撮っている最中に
編集するコンテが監督の頭の中できちんと描かれているかどうかなのだ。
編集は切り張り貼り混ぜ作業ではないのだ。
ドキュメンタリーはそうならざるを得ないが
ゴダールの『ヒアアンドゼア』をご覧になればわかる事だが
劇映画の監督を辞めたとゴダールは云いながら
あのドキュメンタリー風映画で 中東の女性のモノローグを
撮影している時 監督(ゴダール)の声が 同録中に
入ってしまう
「ちがう もっと下げて そう左を空けすぎだ。彼女を動かすんじゃない!」
そんなアングルに拘ってしまう瞬間が記録されてしまう。
そして ゴダールはそのシーンに アフレコで自嘲気味に
「所詮映画は映画だ」だったか そう弁明している。

生まれつきの映画監督とは そういうものだ。

私が企画プロデューサーで参加した『ビリー☆ザ☆キッドの新しい夜明け』で
スモークを薄っすら焚いて 奥行を付ける手法を撮影監督の高間賢治さんが
導入されたスタイルだったが それは自然光 フェルメールライティングを
主張した私の要望に応えてくださったからでもある。
大河の『平清盛』にもその手法は受け継がれているが 評判は良くない。
スモークでなく 本当に砂埃のようなモノを噴霧しているのかもしれない。
色が黄色く霞んでいる。それでは 自然光にも 奥行を付ける狙いも
達成できないんじゃないだろうか?
セット美術、衣装は折角 溝口組の水谷浩ばりなのだから!

フィルムと違って ビデオは長回しが楽だ。
溝口の中央上から左へ城壁や屋敷の塀の線を奥から手前に
広がるアングルを高い位置からクレーンダウンしながら
水平に走り 幾たびか役者を中央に追いながら
ローアングルで三角形に役者をおさめ安定を維持し
長台詞にという芸当も可能である。

あぁぁ 映画撮りたい…。平清盛の一話分ぐら演出させてよ。
と アホなことを呟いておきます。ハイハイ。冗談っす。
物的にまわぁる♪ そうゼルダが歌った曲名は デスレスナイトだったか?


エイセイアとして。 [試論]

私が今棲んでいるわび住いの南面するサッシ越しに
昨夜からスーパーフルムーンがまんまるとして覗き込んでいる。
今日 私は馬齢を重ねた。嬉しさよりもプレッシャーの方が重いのだが
『梁塵秘抄』
 遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、
 遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
月が そう謡っているようだ。

いや大河ドラマ『平清盛』がこの謡曲を主旋律にしているからだ。
頗る視聴率の悪いドラマらしいが
私は このドラマの作り手達 プロデューサー ディレクター
そして藤本有紀というシナリオライターの意気に感動しているし
共鳴している。 見事だ。

 宋銭を持ち込み 貨幣経済を導入して 一挙に武家政治へ
パラダイムシフトした革命家・平清盛として
描き直す挑戦、そして清盛が 
日本における 異民族の血筋を持つという設定もしている。
この異民族とは ペルシャ人説とともに
ユダヤ人説とが まるで都市伝説のように平安末期から
蠢いているのを 蘇らせている。
その男を巡る 後白河帝という現代で云えばロック歌手から天皇になり
やがて複雑な巨魁になる若者や 
恋をキッカケに武士を棄て詩人に飛翔する
西行法師を配している。
恐るべき子供たち!彼らが其々に果たすあそびをせんとや生まれけむ
ドラマが 果たしてどんな感情教育をするか 私は大いに物見したい。

 浅田彰は20代で「ありうべき家族のカタチなんぞ ありはしない」
そう云って 最前線から逃走した。
小津はまるでありうべき家族のカタチがあるような気配を
美しく画と音で紡ぎながら その幻影が残酷であることを
そっと忍ばせて 疾走した。映画であそびまくった。
この世の無常に託された 人間とは何か?
この問題に個々が応えるのが 人生だという残酷さを
どう受け入れ どう受け流し 死ぬために生きる
どのように全うするか 
あそびとは何か? 怠けることでないことは確かだ。
ただ 喰って寝て働く それがあそびか?
ささやかな趣味をあてがって 病み老い死ぬのが
あそびをせんとや生まれ来たと言えるのか?
喰って寝て働いて 種の保存をして 懸命に育てる
そのあそびは 生半可ではない。だが鳥獣はそのあそびに夢中だ。
疑念の余地もない。だから 答えは其々に任されている。
答えは自分出だし 正解は所詮自己満足でしかない。
残酷さとは そういうことである。
 
アルチュール・ランボーは37年の生涯において
殆ど旅と商取引で病み疲れる時間ばかりで後は
生まれつき霊眼を開示し十代半ばで完璧な詩を書き上げてしまい
その壮絶なエネルギーを持て余し 霊眼を閉じ病み疲れる為に
英語教師でお茶を濁す人生であそびを全うしようとしなかった。
自分の血を引く男の子を完璧に育てるあそびをいつしか失念した。

自分を苦しめるのでなく この苦痛さえもあそびだと
歓ぶのか 歓べるようになるのかならないのか

決着のつきようのない命題を馬齢を重ねる日に己に問うてみた。


目に青葉 [雑感]

となると 初鰹でなくとも良いのだが
両国の天亀八に行って
鱚めごちイカ穴子に海老と天麩羅も
塩で頂戴して 鰹のたたきでしめたい。
下戸のくせして天麩羅は実際 塩で食べ
その上 茗荷と白髪ねぎたっぷりの
ポン酢仕立てで この時期だけ食べられる
鰹のたたきが さっぱりと小粋で 満足×満足!

天亀八でそういう食事をして
対面にある江戸博物館ではなく 清澄白河の
深川江戸資料館へ行きたくなるへそ曲がりだ。
大江戸線で5分移動して清澄白河に行きたくなるのは
江戸情緒に浸った後に 東京都現代美術館
行きたいからでもある。
ちなみに 深川清澄白河にも一軒 旨い天麩羅屋さんが
あるけれど 鰹のたたき、あったかなぁ?
和菓子屋の藤村でシュークリームのシュー(皮)に
あんこが入った名菓がある。

どうせゴールデンウィーク中に
セザンヌ展を観に行くのは ゲンナリするだけだし
観たい映画も無い。TUTAYAで見忘れたままの
『自虐の詩』でも借りてこようかぐらいであるから
自分の小説『安眠屋』の舞台である木場公園を
抜けて 現代美術館に至る路を久しぶりに歩くべきかもしれない。
馬齢を重ねるのを独り祝う膳を 両国に求めようかなと
こう書いていて 思うのであった。


ちなみに『ネギ焼屋のバイロン』が書き始ってしまいました。
電子書籍ブログの方にアップしていこうと思います。
書き終わったら そちらのURLをこちらに貼る予定をしております。


Rimbaud is My rainbow・・・ [栗庵]

イルミナティの事をこのブログで書いていたからか
ある日 シャワーを頭から浴びていると
私の脳裏に閃光が走り抜けた。
『アルチュール・ランボーのIlluminationイリュミナシオンって
 イルミナティ(光を与える者)だっけか?!』
如何せん子供の頃から金利生活者になるんだと
決意していた天才詩人だったので 気がかりになった。

 森繁久弥氏がテレビで中也の『湖上』ポッカリ月が出ましたら
船を浮かべて出かけましょう・・・あれを暗誦されたのを観て
中学生で中也に衝撃を受ければ 当然の如く
誰しもそのままアルチュール・ランボーという彼岸に
波の背に乗り漂着は必至である。

金子光晴訳と堀口大学訳を左右に置いて真ん中に
ノオトブックを開いて フランス語なんぞ一口も喋れない
14歳のガキが 自分流に翻訳し直す、ぐらいの事も
どなた様にもお心当たりございましょうや。
長谷川伸流の『小説家になるための、小説家であり続けるために
すべき読書法』とも相通じるところがある事を
なぁんだ とっくにオイラしていたんだと 思い出す。
しかし そんな熱狂も 件の天才詩人が27歳だかで
彼の母親か妹宛に書いた手紙を読んで大いにゲンナリしてしまう。
「これから僕はひと稼ぎしたら その金利で生活しますよ
 そして兎に角健康な娘に男の子を一人産んで貰って
 その子を 僕が完璧な人間に育て上げます」
といった星一徹のような自分の叶わぬ夢を倅にお仕着せするような
文面を読んだ途端に ヴォワイアン(見者)の手紙は
どうなっちまったんだよ と興ざめ、法華経の如来寿量品偈頌の
『仏語実不虚』という詩句を叩きこまれていたので
フランス語だけは習得しなくてはならないという志も萎えたのだった。

しかも 同じ1854年に生まれたもう一人の見者・シュタイナーに
私はのめり込むことになる。なぜなら天才詩人ランボーは同時に
予知能力というSPECを保持した見者でも在ったのだが
途中でそんな事は抛りだし、ノストラダムスの後釜に座る義務だか宿命を
回避してしまう。彼が回避しなければおそらく オーストリアの
裕福でリベラルな家庭に育ったルドルフ・シュタイナーは
ゲーテの植物研究に関して生物学者として監修しただけで終わっただろうに。

そして宇佐美 斉・京大教授のランボー全詩集がちくま文庫にあったので
改めて Illuminationイリュミナシオンを読み返し 
あぁ やっぱり ランボーは 光りを愛する者派だったと
安堵した。そして 堀口大学先生は かなり飄々とランボーが
預言者才能を保持していたなんて事を 書かれているのを
発見して この人の刷り込みだったんかいなと 金子光晴先生訳と
ごちゃまぜに読んだツケが変な所で回ってきたもんだと
自分を嗤ってしまった。

 宇佐美教授訳のこの文庫版のランボー詩集には
ランボーの福音書に関する文章も収録されている。
なぜか共観福音書でなく、ヨハネの福音書のみを
16歳の少年が解題を試みているのだが
それはまるで ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に出てくる
一大叙事詩【大審問官】に迫る勢いの散文詩になっていた。
アウフーベンしまくりの散文詩!
更に12歳ぐらいで書いたギリシャ語とラテン語を呪詛する
少年の告白を書いたコントも 私は初めて読んだが
今時の日本の小説家で此処まで活き活きと
クラスメイトの大方の心情を代弁してみせる文体を
サラリと書ける人がいるんだろうか と思うぐらい
ガキンチョの悪戯書きとは思えない程 巧みだ。
そして 既に金利生活者になるんだと書いているから
パリコミューン前夜のフランスでは こんなガキどもが
口癖のように金利生活者になるんだと 云っていたんだろう。
この早熟なる天才ぶりは ラディゲより上を行っていると
私は 思った。『肉体の悪魔』なんて少女漫画みたいじゃん。
いや筆が滑った! 私の此処でいう少女漫画とは
私がガキの頃 姉が買ってきた『りぼん』とか『少女フレンド』に
掲載されていた頃の少女漫画の事を指している事を
ご了承頂きたい。

 私が8㎜映画でランボーの『永遠』 
とうとう見つかったぜ 何がさ 永遠 海と蕩けちまった
太陽の事さを使ったのは 未だ観ていなかった
ゴダールの『気狂ピエロ』からの剽窃であり
その映画に『物語~レシ』と題し、同じく未だ観ていなかった
ゴダールの『女は女である』の自転車シーンを剽窃してしまったのは
私が ある種の天才だったからそうしてしまっただけのことだが
今となっては そんな事はどうでもよいことになっちまっている。

そして。
Illuminationイリュミナシオンの冒頭を飾る【大洪水のあと】が
私の脳内の無意識領域辺りに沈殿していて
私は このブログに
アセンション後のこの地上時空を夢に見てまで書いたのだろう。
なぁんだそんな事だったのか とホッとしかけたのだが
しかしなぁ アルチュール・ランボーはこの時までは
ノストラダムスの後を継ぐ自覚があったんだっけ?
全開だよね・・・・霊眼。という危惧と

何で今更、ランボーなんだってのが どうしても気になるわけで。
【大洪水のあと】は ノアの方舟の時代を描写していないことは
確かなんですよね。それ以外の詩は言葉の錬金術師が
サゼスションをふんだんに潜ませているいるらしいのですが
そんな解析をこの天才詩人の作品に対して誰もしやしない!
ひょっとしたら 70歳まで生き延びたシュタイナーは
何やら読み取っていたかもしれませんがね。

※ちょっとボルヘスの真似をしてみました。すいません♪


太陽が賦与する人類へのチャンス? [試論]

人工衛星『ひので』による太陽観察研究によれば
太陽の磁極変化が 1年早まり、その影響で
地球は寒冷期に入ったといえるそうだ。
それどころか 17世紀半ばから約80年続いた
ミニ氷河期に向かう可能性があるということだ。

原発事故で日本は電力供給が覚束ない。
いきなり再生可能エネルギーに原発分の電力は担えない。
そして 地震や津波は想定外でいつ起こるかわからない。
日本だけでなく 世界中至る所で。
愚かな者たちは火星移住計画を立てているようだが
残念だが グリード貪欲者を受け入れる惑星など
もうこの大宇宙には 一個だにない。
太陽光エネルギーは 案外期待できないかもしれない。
だからと言って化石燃料や地熱、海底ガスなど
これ以上地球を掘削する仕儀は イルカやクジラを捕獲する
よりも 人類として恥ずべき行為だという事を
これから 多くの民が 天災で思い知らされるのではなかろうか?

貪欲者の手にあるかもしれない「宇宙のフリーエネルギー発電機」が
各国の知恵者の元へ異星人が夢の中に立って教える
(私のようなエンジニアでない者の夢の中に立ってもらうのは困る!)
なんて事があってほしいものだが それはそれとして
オーランキトリウムの藻による油田があったりすべきだし
不起不耕の自然農法が きちんと行われる農政が日本に根付く事も大切だろう。
フリーエネルギー発電装置があっても 水田ではなく「藻」油田によって
人類は暖を取ることも これからのミニ氷河期において大切だろうし
我が国の稲作を自然農法に変更しても
水田を作る能力技術を棄ててしまっては勿体ないのだから その技術を
「藻」田にしてゆけばよいだろうと思う。

藻によって作られる油を燃料とすることでどれほど二酸化炭素が排出されるか
私は知らないのだが 寧ろ地球温暖化よりもミニ氷河期にあって
果たして問題になるのだろうか?勿論 多くの発動エネルギーは
無料なるフリーエネルギーで賄われるだろうが
藻による油を燃やすことで 地球と人間以外の全ての動植物にとっても
ミニ氷河期の地球の冷え込みを抑える余徳が在って 良いことになるかもしれない。

先のミニ氷河期において人類はヨーロッパで産業革命や階級闘争革命を興すことになる。
太陽活動が不活発になるから 暗く陰鬱なる時代が到来するだけではないらしい。
寧ろ 人間が自分の脳力を冷静に開発作用させるチャンスにもなるらしい。
先のミニ氷河期において 人類は未だ太陽活動に対する科学も幼稚だったし
科学技術自体も 地球を疎外する独善性に満ちていた。
しかしこれからの科学と技術は 地球と共に生きる効果便益がなければ
何の意味も価値も示せないだろう。
やっと宗教と科学の乖離が融合に向かうしか路がない状況を人類は賦与されたと
腹を括って 思考と感情を正しく鍛えて 脳力を存分に開花させる教育
不可欠になるだろう。人間の超能力を誰かの権力を維持するためだったり
つまらない贅沢と浪費を「カネ」で保証する為にでなく
人が人を仕合せにするためだけでなく 更にはこの星・地球に益する
為に 人間の超能力を使わなければならない時代が来るということだ。

なぁあんつう テーゼを使って どなたか私と漫画かアニメの原作を拵えませんか?
異星人と戦うとか 宇宙怪物を捕獲し合うとか
その手は全く使わないドラマツルギーに徹したいわけです。
なんとかバトルとか宝探しとか ありふれていて 私は飽き飽きしています。
まぁ そりゃ 危機クライシスが無いと盛り上がらないのは分りますけど
そんなもんは 上記のテーゼをすりゃあ必要ないと思っています。
だって そのテーゼで物語できなければ 地球諸共人類は
滅びるという切実な危機が 現実にもあるのだから これ以上
彗星ニビルの衝突やらニビル星からの悪魔の使いと超能力者たちの
壮絶な戦いなんざ どうでも良いわけです。
寧ろ 超能力を如何に自己の独善から解放させる相克のドラマの方が大切なことを
漫画なりアニメで示した方が 光りを愛する者たちの一派としては
推し進めなければならないと思う次第であります。
つまりそれは同時に
光りを与える者たちの一派・イルミナティとの決定的な違いを明らかにする。
私が書きつけたテーゼには その意図も含まれているのだと告白しておきましょう。

太陽は決して消えない。
ただ地球と人類が互いに愛し合えるかを試している。
そのためには 人類が大いに和する魂に自分の魂をどれほど活用しきれるかです。
地上に在る間に持ている(眠っている)脳力を 地球と人類が互いに愛し合う目的に
どれだけ寄与すべきかに掛かっているとすれば 其処に新しい哲学が生まれます。
いや 寧ろ法華経が 本当の意味で 衆生に説かれることになるでしょう。

前のブログ記事にも書きましたが タルコフスキーの『鏡』という映画
数十年前から私に開示していたのは このことだったのだと
そのサゼスション(暗示)を 漸く 光りとして認識したところ、なのです。


この世に話をもどしましょう♪ [雑感]

ちょっととんでもない夢見をした後遺症?で
人生に力が入らない。なんて言っていられないのに!

だというのに ユーグリッドの次元定義を
逆さまにしたポアンカレの次元定義に
再びユーグリッドの 点(0次元)に
今我々が知覚している3次元をあてはめると
たとえばサイコロを点にして横に並べると
それを4次元とし 面にして5次元で
サイコロを積み上げると6次元にするのを想像し
よって 宇宙は6次元までしかない。
勿論 たとえたサイコロは我々が知覚するこの世全てですけどね。
かなり数学的に間違った思考でございまする。
但しボルヘスの言う この宇宙は5段の本棚を6壁面に
並べれば 相成るという法螺話に ちょっと気取って応じられそう
では あるまいか?

スマップリーダー(仲居氏)がドラマ
サヴァン症候群である人物を演じているのを観たけれど
写真を投げて決まりをつけるのが SPECのオネエチャン刑事と
似ているのが ちょっと気になる。
しかし演じっぷりは マー坊が入っているとはいうものの
いや マー坊をスマスマでやっていてよかったんじゃないのかと
関心したりした。 そう。人間の脳力は計り知れない。

ところで今年の大河『平清盛』は 清盛異人説を採用している。
だったら あの役者でよかったのかな・・・
もっとハーフっぽい顔つきの役者の方がよかったような気がするのであった。

それにつけても我々は 価値代替え数値に人生を振り回されて
神も仏も忘れ 忘己利他を あーもうこりたと吐き捨てるしかないのである。
だったら 価値感そのものを換えるしか 価値代替え数値からの
レッセフェールは まぁ アセンションに任せるとして
我が新製品アイデアなどを価値代替え数値への変容する
作業でもしてみよう。いや しなくてはなるまい。


夢で観た「アセンション後」 [夢日記]

※あくまで私の夢見を書き残すので
 以下の文章を鵜呑みにしないでくださいね♪

私は空から青い水の惑星を観ていた。
どんどん視界は地上に近づく。
ちょうどこんな森と湖の風景も見ていた。湖の陽光.jpg

しかし風を感じるともなく、空撮を眺めているのではなく
私は確かに飛んでいたのだが 不図自分の手を見たが
手など無い。その瞬間激しく動揺していた。
視界は既に地上を見渡していて 緑の美しい草原に
動物たちが 点在している。空を見上げると
「あなたの肉体は ありませんが
 あなたのエーテル体とアストラル体は
 あなたの心と共に 在ります」
そういう声が 聞えてきて 私は落ち着きを
取り戻していた。 すると動物たちの周りに
白衣を着た老人と細いジーンズコットンのスゥエット姿の
褐色の肌をした長い髪の女性が居た。
私は彼らに歩み寄って行った。老人は動物の健康状態を
英語だかで女性に告げ 女性はそれを矩形の端末に
入力していた。長く赤味を帯びた茶色の髪を後ろで纏めた女性が
私の方を見て微笑んだ。「私が見える?」と英語で
私は呟いた。彼女は微笑んだまま 頷いた。
白衣の老人は白い肌に白い髪と髭、円形のメガネをかけ
彼も私を見て 「ここいらの動物植物に問題はないですよ」
西洋人なのに何の違和感のない日本語で話しかけてきた。
すると青い空から…?「この方は見学みたいのものです」
という声が聞こえてきた。
彼らにもその声は聞こえたらしく「そうですか そろそろ
そういう時期ですな」老人は 私の方を見ながら声に応じた。

そして
私は地球を遠望する場所に居て ガイドの声に耳を傾けていた。
「この地球には 人類は70億人以上存在しています。
 けれど 肉体を持った人類は3000万人しか地上にはいないのです。
 それ以外は 老いもせず病気も知らない 食欲も性欲もなく
 排泄も消化の活動も不要な エーテル体とアストラル体
 それに「こころ」だけを保有しています。
 幽霊? いえ違います。3000万人分の肉体はスーツのようなもので
 時々交代で 着替えるだけです。肉体を持っていても
 もう人間は嘗てのような 地上での生活とは無縁になっていて
 ただ 地上の動植物を 見守ったり 癒したり
 そして新たに 植物を移植したり 地殻変動などで
 動物たちが 犠牲にならないように移住させたりしています。
 エーテル体とアストラル体、こころだけのその他人類は
 さっきあなたがしたように自由に地球を観に行き
 時には海底で 活断層の状態を 観察したり 海中動物たちを
 安全な場所に導いたりしています。
 地球という惑星と共に 地上の生命体が最も安全な宇宙の場所に
 存在できるように 60億以上のエーテル体とアストラル体、こころだけの
 人類が協力し合っています。時には肉体を有した状態の方が
 その目的を首尾よく行えるという合意が為されれば
 3000万人の肉体スーツに 適宜なるエーテル体とアストラル体、こころが
 交代しにいくだけのことです。言語も神も 一つになっているので
 意思の疎通には なんの伝達手段もいりません。
 誰かが「全て繋がって知恵を出し合うべきだ」そう呟けば
 エーテル体とアストラル体、こころだけの個々人は
 脳のシナプスのように繋がります。その時の地球は少しだけ
 宇宙空間で発光しています。時には代表者会議ともいいましょうか
 ある問題のエキスパートだけが 月に集い地球自体と話し合うこともあります」

「もはや エーテル体とアストラル体とこころだけの人類に
 邪心は 個々の克服に残されていますので
 性欲などの肉体保持時の私欲の種を浄化する作業に終始する個体も
 多いのは確かです。邪心の克服 私利私欲の踏破を得ねば
 エーテル体とアストラル体を自由にする事は叶いませんから。
 ただ地球の周りで 丸く固まったように その克服と踏破に
 時間の限りなく努めている個体が浮遊しているのも見えるはずです。
 昼も夜もなく ただ自分のこころと向き合うだけの状態は
 ある意味で地獄かもしれませんが それは輪廻の活用を自分の意志で
 怠った罰のようなものですので 誰も手助けはできません。
 自由に地球という惑星と共に生きる個体たちの仲間になれるかどうかは
 自由意志に任せれているのですから」

「3000万人の人類、というか肉体のスーツ・・・は 脳や内臓、筋肉いずれも
 最も健康な状態である個体が 選ばれています。
 老人もいますが それは指導的立場を明らかにするためです。
 この3000万人の人類は あなたが嘗て見たような都市に 数グループに分けて
 暮らしています。人類が肉体を持っての種の保存は終わっていますので
 食糧も肉体スーツ維持に必要な栄養素を 化学的に補給するだけですから
 農業が その栄養素を確保するために行われ タンパク質も
 基本的にアミノ酸合成工場で作られますが プランクトンや藻を養殖しています。
 食欲やグルメというような欲求は エーテル体とアストラル体とこころだけの
 状態時と変わりないですから 肉体スーツに入っても 皆無です。
 
 肉体に対する執着は あのアセンション時に 強烈な磁力と放射能で
 人類の脳から払拭されてしまった ということですね。
 勿論 それでも そうなりがたい「こころ」しか形成できなかった人々は
 先ほどの状態でまるまています。だから彼らは肉体スーツを装着する交代要員には
 なりえません。「こころ」をあのまるまった状態で解く、執着を棄てるだけですが
 肉体を失くしても尚 盡せぬ執着では どうしようもないのですが
 それも 自由意志です。イエス・キリストの自由はそういうものです」

私は ラブレーの『テレームの僧院』がニーチェの『ツアラトストラ』に与えた
影響が ナチスの民族浄化に捻じ曲がったのは 地上のルツィファーとアーリマンの
重力操作であったことを 思い浮かべ 思ったままに呟いた。
ナビゲート役の声は 「そういうことです」と 静かにクールに応えた。


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