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1958年生まれのたわ言~『日の丸戦隊ドースンジャー』と椎名林檎『三文ゴシップ』 [雑感]

今 私の手元にアンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』のレーザー・ディスクは無い。
東京京橋に在る美学校という映画専門学校に寄託したからである。
タルコフスキーは 原作を逸脱して 数名の科学者が宇宙ステーションで
人生なんてものが たかだか微かな意志という磁性によって物質化現象しているにすぎない体験であることを
宇宙の果てで思い知り、彼らは 科学技術なんぞの発達よりも 人類は想念の進化を目指すべきである事を
其々が其々に思い知る。そこへ向けて 長い長いダイアローグ映画を創ってしまった。
そのプロローグとエピローグには 美しいロシアの自然が呆然としたように記録されている。
宇宙ステーションでカメラが動き回るたびに 観客の視界の両端に
狭い通路の壁が走り、低い天井と床がさらに視界の上下を疾走し、観客は
生理的な不快感に晒される。閉塞感は 画として 見事に観客に伝わる。
彼らが抱え込んだ 宇宙の真実と その真実への人類としての回答に
それぞれが 神経を病む。
我々の地球という星での人生体験が 宇宙の成り立ちにおいて
全く無意味ではないものの 余りにも 不条理に無限の拡散性に
委ねられながら 繋がっているという恐ろしさに満ちているからである。
さて。
熊本・HINAMIの第5作(「日の丸戦隊ドースンジャー」)は 
タルコフスキーの『ソラリス』を目指そうとしている微かな気配はあるものの
全く・・・・今後ドースンジャ・・・という出来栄えであったといわざるを得ない。
ソラリスの方へ向かうのなら やりようがあったと思う。
しかも当初は 日本の歴史に名を残す霊が 憑依?降霊し
現代の日本の諸問題に対する提言を為すはずではなかったのかしら?
政治ダイアローグになる退屈さを覚悟していたけれど・・・
なんだか 低予算で スラップスティック(ドタバタ喜劇)なのか
カンフーアクションにしたいのか タルコフスキーなのか
全くどっちつかずの はりまぜ脚本そのままに 惨澹たる結果であった。
父と娘の和解に向けて こんな陳腐な設定など目障りなだけではないか。
小津なら『晩春』で 父親の再婚の為のお見合いで能鑑賞シーンにおいて
父と娘の交わらぬ視線と再婚相手と目される三宅邦子への娘たる
原節子の凝視と凝視を抑制する瞬き そのリヴァースショットだけで
感情のドラマチックな展開を 能の音曲だけで
台詞一つ用いずに描ききることだってできるのである。
そして 京都への父娘二人旅でしめくくる あれだけの話で
見事に 父と娘の和解が 美しく神話へ昇華するのである。
まぁ いきなり小津の高みに到達するのは至極困難だろう。
だがして 黒川裕一さんほどの映画的教養豊な監督が 試みて
できない相談ではあるまい。
共同シナリオ作りは大いに結構なのだけれど やはり
ある時点で プロデューサーでもあり監督でもある傑出した才能が
独走しなければ 作品としての出来栄えは どうにもならないだろう。
観客を前提としいない学生映画ですら もう少し 観客を意識した
映画作りをしていた・・・と80年代8ミリフィルメーカーの一人として
敢て 苦言を 表明しておきたい。
               ※
なぜHINAMIは 熊本の自然を 活用しないのか・・・
撮影日数と低予算による 必然的な 拘束事項なのだろうか?
なぜ 夏目漱石の『二百十日』を阿蘇で撮らないのだろうか?
現代に潤色したって あの若者二人の問題提起は 古びない
青春のテーマではあるまいか。阿蘇の自然に彼らの心理は遺憾なく
画として反映しうるだろう。漱石がそのとおり書いていますしね。
なぜ 蓮實重彦を口説いて 蓮實監督で『草枕』を熊本で
撮るなんて 企画に挑戦しないのだろうか?
 ドースンジャーだって 熊本なら ギリシャのデルフォイの御宣託に
見えなくもないような 洞窟ぐらい ありそうなもんだろうし
その洞窟の漆黒の闇から 次々と霊のお出ましあって
政治的ダイアローグへ終始したとしても 熊本の自然美は
雨だろうが風だろうが 曇っていようが フォトジェニーを確保できるではないか。
さらには 以前NHKで熊本の工芸高校の取材を見たことがあるのだけれど
その17歳の青春と ロボットづくりを目指す17歳の青春の
ほんの数日間の出会いと葛藤と別れを 描いても面白いだろうに・・・。

さて。以下は 椎名林檎の『三文ゴシップ』について。
その前に蛇足として。
先週アメリカで バットマンのジョーカーになりさがった かつて最も美しかった
アフリカ系アメリカ人のキングオブポップスが 急逝したけれど
まぁ 痛ましいかぎりでありました。同じ1958年生まれとしては 
「ラッキーな奴だな 合法的に麻薬漬けでポックリ逝けるなんて」という感想にとどめたい。
彼の音楽性の高さは『スリラー』を頂点としていると 思う。あとは下降し低回しつづけ、
整形まみれになればなるほど バットマンのジョーカーになりたいという彼の奇矯な夢は
ボロボロになりながら 実現した。本当の意味で彼は破滅派だったんだ。

『三文オペラ』と聞けば 高校時代一時的にせよ演劇少年だった者としては
ブレヒトを連想する。 異化作用を どのように音楽的に実現すんだべさ・・・と。

ハハハ 三文ゴシップか・・・というわけなので


えぇぇぇ フレッド・アステアが 軽薄なタップを見事に披露しまくる
40年代~50年代のハリウッド製のミュージカル映画世界を彷彿させてます。
音の厚みは なかなか快適です。白っぽいジャズが横溢してます。
時々 モダンジャズっぽくなりますけど 束の間の輝きですな。
駄洒落にダブルミーニングを期待する愚かなラップが 薄汚く
過ぎります。ラップってのは 本当に駄目だね。雑音より無意味だわ。
サランラップは役に立つけど・・・。歌舞伎にラップの原型のような
「くくりくりくりみくくり」ではじまる壮絶な歌があるんだけどね
あらぁ 意味と無意味が 二重らせんになっていて 言葉の魔術ですわな。
言霊を降ろして 再び解き放つ魂胆が在って そらぁ 恐ろしい。
滑稽に凄みが増して 浄化作用が あるんだけどね。
日本のラッパーには せいぜい お勉強していただきたいが ま 無理だわな。

椎名林檎さんの英語は やめといた方がよかったね。
B、P音は破裂不発し M、L音は 滑りまくる・・・口の形が毛唐とは異なる
我々は 幾ら後天的に肉食にしても 遺伝子の壁にぶちあたるから 上記音を精確に発音するのは
むづかいし・・・のだそうです。
木村カエラは やはり英国人の血が入っていますから 寧ろ日本語のほうで
聞き取れないことが 多いですな。
いっそ英語歌詞の多い曲は 木村カエラに歌わせたほうが 無難でしたでしょうか?
彼女ご自身が 判っていることだから あまり こんな誰も読みもしないブログであるが
憚るほうが お行儀がよろしいのだけれど
ソングライターの卓抜さに比して その声質は 実際 ヒステリーに傾いてしまい
それが まぁ 現代の脆弱な若者たちの脆弱な心の叫びには丁度共感と共鳴をもたらすらしいけれど
とくに今回のアルバムには そぐわないのである。
たしかに 最初「ライザミネリ?」に聴こえるんだけれども やはりライザミネリの
高音は 鼓膜でなく 我々の胸のど真ん中をしたたかに叩きのめすパワーがあるのだ。
ありやぁ どうやって唄えば あんな風に高い音が宙に昇らずに
水平に飛ぶんだろうね・・・。
椎名林檎さんは その辺の自覚が ございましょうから 唄っていてせつなかったでしょう。
NHKの『SONGS』でなにやら 告白していましたしね。
東京事変あたりのキッチュレトロの黴臭さを払拭したヴィジュアルはお見事です。
マドンナのように力強く 日本のディーバとして今後 さらなる君臨をなさいましょう。

にしても ミドルテンポのロックンロールが やっぱりおっさんには いいですな。
ジャズも最近ほとんど 聴きません。バードの『四月のパリ』を時々鼻歌するか
口笛で吹いていることが たまにあるけど・・・。

「生きていることは 所詮 うすみっともない。 生きることは恥ずかしいこと。
    だけど 死ぬない トホホのホー」
ジャズを聴いているときは どんな曲を聴いていても そういうコラールが
私の頭でリフレインしている。
『ジャズとは トホホの共有である』・・・私の極めて個人的な定義ですので 
決して ご信じめさぬように 願います。
黒沢奈都の「意味なんてほしくなわぁ」という声が ふわりと浮かぶ。
彼女は 私が作った8ミリ映画の主人公にすぎないが
その面影は 青春の後姿そのものであることを 最近了解できるようになってきた。
            齢をとったんだ。とどのつまりは・・・。

三文ゴシップ

三文ゴシップ

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: EMIミュージックジャパン
  • 発売日: 2009/06/24
  • メディア: CD


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