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東興園の思い出~vol.1 [小津と厚田]

今日は 晴れたわりに寒かった。 『大江戸』でカレー蕎麦と牡蠣のオイル漬を食べ
『福どら』で生クリームとあんこを混ぜた「生どら」を買って デザートにした。
まぁ 此処のどら焼きは 廉くてうまい。価値が価格を上回っていることは確か。
しかし どら焼きは 矢張り 日本橋『うさぎや』に限る。うさぎやのどら焼きは
本家は 浅草だ。
銀座にあった『東興園』は 僕が アイアンドエスという広告代理店に移って
1年ぐらいして 焼失してしまった。今は もうない。
小津の『お茶漬けの味』や『早春』に東興園の中華そばやシュウマイライスが
そのまま登場する。 小津の最も愛した店だ。小津だけではない。電通の吉田秀雄社長、
川島雄三(映画監督、『幕末太陽伝』『愛のお荷物』など)も年がら年中 東興園で
シュウマイや パセリのみじん切りと鶏肉を炒めたカレーチャーハンを 中華そばと共に
平らげていた。鶏とカシューナッツの炒めたのも 僕はよく頼んだ。そして 小津考案の
『とりそば』は たしか白菜が入っていて 存外 あっさりしていて、大上戸の美食家らしい
数奇者たらしの味がした。 小津は 茶人になっていたら さぞかし長生きもし、もっと
お金持ちになれただろう。書画ともに 「この人には勝てねぇや」という風格がある。
そんな小津安二郎と 東興園の女将さんこと 久野静子さんとの出会いを 当事者の
久野のおばさまから伺った事を 以下記そう。 
~そして どら焼き(うさぎやの)を見ると 東興園の女将さんを 思うことになる。

★戦後間もなく、といっても徴用でシンガポールに半年以上軍属として留まった小津安二郎が
日本に戻ったのは 昭和21年だっただろう。小津は 60年の一生で 兵隊として4年、
軍属(チャンドラボースのインド独立運動の映画を撮影するためにシンガポールに渡った)として
2年。人生の1割を徴兵制度によって掠め取られたわけだ。34歳からの3年間は 大きな痛手だっただろう。
ともあれ 小津は 日本に生還できた。戦前から小津は 映画監督のくせに有名だったそうだ。
大ヒット作があったわけではない。小市民(東京の下町を舞台にした、しがない俸給生活者、職人やテキ屋)ばかり
描いていた。「映画作家という感じだったわね。活動写真のカントクさんじゃないの。文士みたいだったわ」
おばさまは そう述懐された。 久野静子さんは 東京浅草で生まれ育った。浅草のお嬢様だった。
今のお茶の水女子大の前身、第一高女卒?だ。嫁いだ先は 貿易会社を経営する実業家。
しかし 戦争で全ては 無くなる。それでも「女は強いからね」 久野静子さんは 「泣いてても仕方ないから」
趣味で習い憶えた?「中華そば」を銀座の焼け跡、夫の会社が在った場所に 店を出した。
それが東興園の始まりだったそうだ。小学生にあがる前の息子さんが 余りにもチョロチョロして危ないので
おんぶする年齢では ないが 息子さんを背に帯で括りつけていたそうだ。火をボンボン焚く傍で
一人息子に火傷でもさせては 元も子もない。そんな ごく当たり前の母親の心情でそうしていたそうだ。
其処へ ある日 小津が入ってきた。有名人だから おばさまは 少し緊張した。「ああ小津安二郎は生きて帰ってこれたんだ」 ちょっと嬉しかったそうだ。小津は何も謂わず ただ ジーッと 見詰ていたそうだ。なんでこの人はこんなに 見据えるように見てるのだろう?気になったが 険しい目つきなので 何も訊けなかった。その日から小津は 立て続けに まだ掘建て小屋の東興園に通ってきては ただ 息子を背負って中華そばを 作っているおばさまを 見詰続けた。
そして何日めかに「おばさん 悪いこと訊く様で申し訳ないんだけど もしかして倅さん どこか 
お悪いの?」小津安二郎は 心配そうに 聊か申し訳なさそうに そう謂ったそうだ。
久野静子さんは 上記理由を 話した。すると「そうか よかった。 そうそれならいいんだ。
そう そりゃよかった」そう言って小津は初めて笑顔を見せて帰ったそうだ。
次からは 立ち寄っては 横浜のシナそばやシュウマイ談義をしたり、
「凄く 人見知りするんだけどね なんか キッカケができると 屈託無くて かわいい人なの。なんでそんな話まで私にするのかしら って思うのよ。でもね 話し上手だからついつい聞き入って 話し込んじゃうの」
そうして小津は 名匠の名をほしいままにしていく。戦後の小津作品は 殆ど大ヒットした。もう 戦前の小市民生活から卒業していた。東興園も銀座の一角で多くの人から愛されることになる。
数寄屋橋から 新橋に向かい、大通りを一本帝国ホテル方面に入った小路に 僕が通いなれた
東興園は在った。
リクルートビルの真裏、今も在る喫茶店『ウエスト』が大通りに面してるが その裏手に在った。
不思議な小路だった。東興園の対面に架かるBar『泉』という看板が目について仕方なかった。癖のある『泉』という文字を小津の映画で必ず目にしていた事に 後々気づくことになる。
小津組スタッフが 小津と通い詰めた証拠なのだ。
それにしても東興園のシュウマイは 肉がギッシリ詰まっていた。それでいてしつこくなかった。
カレーチャーハンとシュウマイ。 一人で行く時はそう注文した。仲間や連れが一緒だとカレーチャーハンは 取り分けて、中華そば か鶏そばでシュウマイを人数分頼む。一人ではない時、僕は店に入る前に 必ず 硝子戸の透明な部分から店内を覗き込み、混んでいると
近所を散歩して 時間を潰してから 入った。後日 おばさまから その癖からして
「あんたは 小津さん そっくり」と謂われた。
「あなたが 初めてウチいらした時ね、アラマァ 小津さん って吃驚しちゃったわ。似てるのよ。」
「僕は下戸だし、あんな大男じゃないよ」と照れた。「まぁ 背格好は そんなものよ。もっと小津さんはガッチリしてたけど。あとね 声かな?喋ってる時の感じとか。それと 小津さんも食べ方が 
品が良いというか 綺麗というか それでいて気障じゃない。男っぽくって 穢くないの。」
其処まで褒められたからでもないけれど、
時としておばさまが  シュウマイのお土産を下さったので そのお返しに 
僕は「おやつにしてください」と日本橋の「うさぎや」のどら焼きや茶通を次に伺う時に持っていった。

嗚呼!東興園よ!もう銀座に帰ってきてはくれないのだろうか?
僕が未だノロノロと映画を一本も監督しないからか?
銀座に東興園が 無いから 俺は もう 映画なんか撮りたくねえや!と 駄々をこねてみようか。
あんなに 心から寛げる場所は もう 何処にも無い。
女将さんが 時折 長唄かな?小さく機嫌よく、勘定場に腰掛けながら歌っている。
それを聞きながら幸福な気分に満ちて 酒飲みの友人達と 小津や溝口の映画に関するあれやこれやを語った。蓮実重彦の『監督 小津安二郎』は立派な、これ以上ない小津を見極めた名作評論だ。文句なし。なんて謂ってると
「あら その先生なら こないだいらしたわよ。おそろしく大きな方だった」
「ハハハ あの先生はガルガンチュワの末裔だからね」 「そう 外国の方のなの?どーりで」
そんな会話をしたあの場所は 僕の記憶の中で 存在し続けるだろう。
東興園の思い出は まだ書きつくせない。それを書くだけでも このブログを続ける意味は 
あるかもしれない。


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