So-net無料ブログ作成
検索選択
小説と映画 ブログトップ
前の10件 | -

金曜放送分も土曜には動画アップしてね テレ朝さん [小説と映画]

いえなに 『やすらぎの郷』のことであります。
tVerへの動画アップが金曜日放映分が 月曜になるので。
実に 遮断感が半端無いので トホホホ。
こんなとこで注文つけても 意味無いのは承知なのですが。

 しかし
八千草薫さんの おでこ って 国宝クラスですね。
倉本聡さんは 彼女の「ねぇ~」の凄さを熱弁されていましたが
その八千草さんの「ねぇ~」炸裂の 素敵な喜劇が繰り広げられています。
加賀さんや浅丘さんが絡んでの 誰一人悪人と悪意の無い
寧ろ善意が空回りし 捩じれることによって引き起こされる
喜劇ってのは 観ていて やはり 気持ちいいですしね。
復讐劇のシンドイドラマは 若気の至りの世代向けなので
観ないことにしています。どうせ暇潰しなのだから
『やすらぎの郷』で ホッコリした方が いいですものね。
復讐劇のドラマってのは『リバース』ってやつです。
私が観ない方がいい映画と嘗てこのブログで書いた映画の
原作者の小説が原作です。半分観て 消しました。
ついでに 申し上げれば 火曜日夜10時のTBSドラマも
私なぞはターゲット外だと思いますので おそらく 観続けることは
無いと思います。監督が金子さんだってので初回は拝見しましたが
いやぁ 仕方ないっすよね。こんな話だし こんなもんでしかない。
冬彦さんになる東出青年の運命やいかに・・・って興味ないし。

ということで 『やすらぎの郷』が 妙にテレビに貢献したというより
日本映画史に関わる噂のようなことが 更に倉本さんの
想像力によってとんでもない噺へと変容する様は
決して 悪くない。 いや不遜な言い方ですな。
素晴らしいと 申し上げましょう。
テレビドラマ創世記?における小津安二郎と
マキノ雅弘に関する 伝説なんてのも 倉本先生が
書いてくださると もっと 痛快なんですけどね。

しかし 『リヴァース・ショット』という小説を書いた者として
復讐劇に『リバース』という題名が付けれらていると知ると
ちょっとむかつきます。 どうでもいいことですけれど。
ちなみに 私の『リヴァース・ショット』は 
復讐じゃございやせん。小津の切り返しショットのことです。

だいたい赤穂浪士だって討ち入り場面なんぞどうでもいい。
それよりも 内蔵助と内匠頭の葛藤を描いた小説を書きたいくらい。
内匠頭は吉良との付き合いは 二度目でした。
家督を継いだばかりのもっと若い時は 国家老の
大石頼母が江戸に出張って恙なく吉良の賄賂要求に従い
何も問題なかった。頼母の甥である内蔵助が あの節
どうして江戸に出張って滞りなく事に対処できなかったのか
面白いドラマはそっちにあると 私は思うのであります。
また 内匠頭が 江戸城中で刀を抜けばお家獲り潰しに
なることぐらい知らないわけもなく 幾らカッと来たからといって
脇差とはいえ刀の鞘をはらってしまったのだ。
武士(もののふ)の心得で
脇差なら喉か胸の急所を一気に刺すのが当然。
よりによって頭なんぞ狙うのは 龍馬を暗殺した
薩摩藩の示現流じゃなきゃやらないし それだって
飛びついて頭かちわる勢いの太刀筋じゃなきゃ致命傷にならない。

内匠頭は 武芸の鍛錬を嫌っていた。という事実もあるらしい。
内蔵助は それを危惧していた。武芸鍛錬によって上記
仕儀を上首尾にせよ というのではない。
武芸鍛錬によって 臍下丹田に力を込める訓練を日常に
積み重ねていないと いざという時に肚が座らない。
堪えるべき時に 心身喪失し 
キレたりしないために 藩主の義務として
内蔵助は 勧めていたはずなのだ。

 私が もう一つ 温めていた赤穂浪士物語は
四十七士が 切腹せず 一度 髪をおろし 得度出家し
全員 他藩に再就職を果たすというものである。
無論 そんな事実史実は無い。 しかし 其処から始まる
大石主税の別の名前の人生を書いてみたいと言う小説。
ある意味でのパラレルワールドを。
さてさて これも温めただけで終わるかな?
半島は爆発寸前だし 日本の火の御山様方々は
海の火の御山様まで 瞋恚を放出されるが如く。
さらに 共謀罪・・・治安維持法より性質が悪い。
これに徴兵制度と不敬罪が立法されると
あれよあれよと我が国は 戦前の世界に戻る。
今の内閣が それを目的にしているのは明らか。

しかし 今上陛下様は サッサと生前退位を御表明あそばした。
その御心を表明あそばした中に 何度も象徴天皇として
という言葉が繰り返され 
二度と現人神に祀り上げられてたまるか!
という大御心と私は お見受けする。

天皇家に見限られた とは 今の内閣は思いもよらないらしい。
その鈍感さだけで 図々しさだけで 国是を弄ぶ方々である。
石破さんとか 嘗ての自民党なら ちゃんと
バランスをとる為の存在として温存するのを
もののふの心得としていたけれど 今や冷遇する始末。

変人総理は 田中派を潰したが
結局 もっと性質の悪い宏池会派を産んだだけだった。
いや 昔の宏池会はもっと理知的だったはず。
日米開戦へと暴走させたニキサンスケの一人
あの 岸信介ですら・・・・。


nice!(7)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

スクェアダンスの気配 [小説と映画]

昨夜の『カルテット』で宅建資格を活かして
すずめが北軽井沢の不動産屋に就活する。
ミッキーカーチスさん演ずるダンディーな社長の
眼鏡をずらす仕草を交えて御機嫌に踊る
すずめ役の満島ひかりさんを 移動撮影でとらえる。
『ララランド』ってアタクシ観てないけど こんな雰囲気?
ミゾミゾ=溝口健二如くクレーンで移動し撮影していた!
で 漸くアタクシも ミゾミゾ感を堪能させて頂いたのだった。

ほぼ確実なことは
満島ひかりさんにとっても
このドラマは彼女の代表作の一つになるはずだ。
ガムテープで口塞ぐのはきつかっただろう。
それを一気に剥すのは もっと辛い。
ベッドシーンよりも 女優にとってナンボか辛かろう。
だが それを耐えたご褒美に
この回では 御機嫌に歌って踊ったし あの不動産屋さんは
白雪姫の七人の小人的存在で ホークスっぽかった。

せいてい じゃなくて成程 
このドラマは四角関係だったのだ!
こっちで ゴダールの『はなればなれに』における
スクェアダンスを おやりになる・・・・かもね。
『逃げ恥』だとね ガッキーという
アンナ・カリーナによく似た女優さんで おやりにと
こちとら思いますがな。ただ 余りにも彼女の
エンドロールダンスが 素晴らしすぎたから。
と 又 アタクシは 一人 思い込みを激しくする。

 マスカーニのオペラのアリアが巻夫妻の出会い
別れを色どったわけだが そのオペラの
筋書きが 或る夫妻とそこへ割り込む男との
三角関係で 結末は 夫さんと割り込み君の
決闘によって夫さんが お亡くなりなるんだそうで
それを示唆しているのだという指摘が ある。
ところが あれれれ・・・ なんだなんだ
真紀さんってのが 謎が謎呼ぶ設定だったんだねぇ
なんだこの複雑さは! 漫画原作じゃないから
監督と脚本家の丁々発止がせめぎ合っていいじゃないか!
こうでなくっちゃね♡ 
アタクシの二つの小説はパラレルワールドの合わせ鏡だが
それを統合する役割をする存在がいる。
それは 異星人・・・・じゃなくて アルザル・シャンバラ人という
もう一つの地球人たちだったりするけど
まさかねぇ 早乙女真紀と名乗る女性が
パラレルワールドを統合するアルザル・シャンバラ人なんて
ことにはならないよねぇ 絶対に。
いきなりこんな変なことを書くかと言えば 私の小説で
アルザル・シャンバラ人は 五十嵐知日子という名前で 
両方の小説に出てくるのだが
昨日 千葉の両親宅から帰る地下鉄の中で
アタクシが小説に書いた五十嵐知日子が
ずーっとアタクシの前の席に座っていたので
寝不足気味のアタクシは 眩暈を覚えた。

まぁ 現実の頑なさに その硬さに ちょっと
やるせなさを覚えると それを 忘れさせる出来事が
表出したりするのも この世らしさである。私の人生には
よくあることなのだ。
そして 『カルテット』のようなドラマが放映されているのが
この時期に重なるってのも 
かなりシャレオツな宇宙の冗談である。


nice!(10)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

お久しぶりです、『海街diary』について [小説と映画]

DVDを借りて観ました。鎌倉だし、綾瀬はるかさんだし
勝手に 小津の『晩春』や『麦秋』を想定して 期待していた。
綾瀬はるかさんは 美しく撮られてはいました。
いやどんな無能な監督が撮っても 
綾瀬はるかは 結局 美しい だけのことだ。

だが それでは終わらないのだ。

彼女が幾ら天真爛漫で天然キャラだからだといって
おはぎを一口で食べてみせるカットを あのサイズで撮影する
監督の才能の無さに辟易した。希林さんと2ショット 直角水平の
アングルで 希林さんが 綾瀬さんの一口で食すを観て
アドリブをどうかましてくれるか 私が監督なら試す。
望むべくは 希林さんも一口で食べるのを試し 喉に詰まらす を
想定してね。事前に絵コンテ見せて。「綾瀬さん 一口でいけるかね?」
と、敢えて希林さんの前で訊く。希林さんぐらい芸達者だと察するから。

にしても 下手くそな脚本だった。 
14歳の中学生の未知の少女から「父が亡くなりました。私まだ中学生なので
お葬式の出し方が判りません。 初めてお電話するのに いきなりで
申し訳ないと思いますが お願いします。お姉さん助けて下さい」
といった電話でこの物語が始まるぐらいじゃないと
なんで長沢まさみさんのダメンズ次女の自堕落な寝姿からいきなり導入するのだか
あたしゃ 理解できひん!と江戸弁と関西弁がまじるぞなもし。
つまり ある日突然 借金を残し しかも不倫相手と出奔した音信不通の
父親の訃報を 会ったことも ましてや妹がこの世にいた事すら知らなかった
鎌倉で暮らす三姉妹が 健気な少女を山形の山奥から引き取る
最も大切なドラマをちゃんと ショットバイショットで魅せる腕が無い。
余計なドラマが多すぎる。三姉妹の恋愛模様なんざもっと端折れ。
大切なのは 腹違いの妹を受け容れる三姉妹の葛藤や 自分たちを棄てた
父親への複雑な其々の想いを どうやって画で語るかだ。
この映画の監督は おそらく夏目漱石の『草枕』を映画読本として丹念に読んでいない。
あの小説のラストは こう終わる 
『那美さん それは画(え)になる!』 そう主人公の画工(絵描き)は絶叫する。
小説と映画は 二卵性の双生児である。
共に それは画になる!を 追究する遺伝子が色濃い芸術形式だ。
映画は一方で音楽と同じく数学的な効率性を 時間芸術として思考を準備する。
小説は 時間芸術ではないが 数学的な幾何学性を 構成と構造として
準備しなければならないのだ。
なんつー事を 判っていても なかなかどうして 巧くいかないものだけれど
にしても 下手くそなシナリオだったし 納得いかない画ばかり並んでいた。

白魚が海中から網で浮上し水面で太陽光と戯れるショットすら無く
ましてや 山奥育ちの少女が その透明な形姿を両手で掬い
「お父さん これがシラスだったの」と思わず独りごちるショットなど
望むべくもなく くだらないシラスバーガーとかシラス丼で父親との
食物的記憶による追慕を 台詞で説明ばかりする。
桜のトンネルを自転車で疾走するシーンを トリュフォーの
『あこがれ』や『突然炎のごとく』へのオマージュとしてショット=それは画になる!
に仕上げられないのは 枯枝監督の映画的教養の低さでしかあるまい。
ジョージ ロイ ヒルですら『明日に向かって撃て』で『突然炎のごとく』への
オマージュをそつなくこなしておるがな。情けない。こんなブザマな映画を
カンヌのコンペティションに出すなんて。
橋田寿賀子の脚本でカンヌに勝負した莫迦プロデューサーなど今までの
映画会社なら存在せんかった。あんな何でも台詞で説明しそれでも足りなくて
石坂浩二さんの重厚なナレーションで登場人物の心理までベラベラと・・・。
まぁね 小津映画の共同脚本執筆者の野田高悟さんが 松竹シナリオ研究所出身で
唯一正式採用を反対したのが橋田さんだけどさ
今じゃ勝てば官軍だぜ。いやな渡世だ。
橋田とは正反対にそれは画になる!シナリオと小説を書き続けた
ラジオドラマ出身の天才・向田邦子さんの『阿修羅のごとく』を覚えている方も多いだろう。
この映画の原作漫画自体が 『阿修羅のごとく』の突如現る異母妹弟に三姉妹
ドロドロのスンゲー世界を 下手くそにパクリ損ねているわけですから
企画を立てた人からして 才能が無いわけだ。類は友を呼びたがるもんね。
困ったものだ。 枯枝じゃなくて是枝さん? わざとですよ。才能枯れてるもの。
橋田脚本書く映画監督が 今じゃ日本の第一線の映画監督なんて
到底受け入れ難いのは 私だけなのだろうかしらね?

流石に 蓮實先生のお弟子さんの黒澤清監督や西山洋一監督なんて方々は
こんな 下手くそなシナリオを書かないし、たとえば 映画的教養の高い
高橋洋さんとか知能指数の高い森下佳子さんにシナリオを依頼するだろうけどね。
いずれにせよ原作漫画の程度が低いのだから 上記のような方々なら
懸命に努力奮闘されただろうにね。 
扇風機の前でバスタオルとって縁側で少女が涼むカットがあるのだけれど
あれって テレビCMで大昔 やってたませんでしたか?
つまんねー映像記憶だよ。
はれほれひれはれ がっちょ~ん 
ついでに だっふんだぁ!


nice!(16)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

余韻、そこから受け取るドラマこそが [小説と映画]

『わたしを離さないで』が 終わりました。
結末は 綾瀬さん演じる保科恭子が 入水自殺をしようと
海に入ると 友彦が逝ったあとに彼女が 河川に流した
友彦愛用のサッカーボールが 彼女の足を再び砂浜に戻すシーンで
終幕となりした。
昏い終わり方の中で 恭子に未だ来ぬ提供通知が
それでも遅かれ早かれ届くだろう。だが
人間は誰しも必ずこの世に思い出を置き去りにして去るのだ。
自分たちは 誰のかの命を永らえるためにだけ生まれてきたとしても
それが 感謝されようとされまいと 人間であったことに変わりがない。
皮肉なことに それは 「死」によって共に抱き合わされてしまう。

この余韻は 春を足踏みさせるような雨の夜にはなかなか受け入れ難かった
そんな方は 多いではないかしら? かくいう私もその一人でしたけど。
しかし 森下佳子脚本は 周到な伏線を余韻のために張っていました。
あの美術教師と恵美子先生が 語らう会話シーン。
「人は長く生きすぎることを扱いかねているのですよ」
「そうですね。 恵美子先生が望んでいらした 
 クローン制度の終焉は 近いというこではないですか?」
「ええ。 人間は 人間の創りだしたモノに逆襲されてしまうのです」

友彦は 自分に猶予延長のために絵を描きなさいと励ました竜子先生と
再会し クローン人間の臓器提供によって感謝する者と出遭い
竜子先生が クローン人間の権利を主張する運動者であることを知る。
そして 自分の理不尽な宿命への苛立ちを鎮める。
恭子という掛替えのない存在と出遭えたことは 自分が
クローン人間として生まれて来なくても在り得たかどうか判らないと
気付く。
これらの伏線の後 死ぬために訪れた海で 恵美子先生と
恭子をは 再会する。人は誰でも あなた達と同様
思い出を置いて この世を旅立つことを 諭される。
「後で 私の家にいらっしゃい。 あなたは私のところへ」
恵美子先生は そう言い残し 介護人に車椅子を押されて去る。
伏線は 余韻を視聴者にたっぷりと残していた。
陽光学苑の同級生たちが 殆ど提供を終えこの世を去ったのに
未だに一度も提供をしていない恭子に 残された運命は・・・・
この後は ご覧になったあなた次第。
何をイメージするかは 視聴者方々の 脳内でご自由に創作してください。

本当のドラマは 映像を押し付けっぱなしにはしない。
ドラマの終幕から始まる 受け手側の脳内にこそ
本当の感情教育の役割が在る。 小説は読み出しからその連続である。
映像は全て読者が脳内で創作するのである。映画やテレビドラマは
映像や音を余りにも与えすぎる。しかし 美しい出演者や光の設計や
美術というヒントを元に 終わった後にこそ 本当の意味での
映画やドラマの役割がある。 小説とて同じだが
それは 想像力を活発にし 思考と感情を二重螺旋構造へ導き
結果として脳を鍛える、 感情教育とは つまりそのことです。
情操教育とは少し違うかもしれません。しかし 情緒とは
余韻を受け手側も与える側も 相手を気遣う、思い遣ることからしか
発生しない とても大切な 人間の脳力なのであります。
数学者の岡潔先生が 理論物理学者の湯川秀樹先生が
なぜ 物質は 物質たりうるかを 素粒子だけなく
素領域を予測し その素領域を連続させ繋げるのは 情緒や愛という
物質ではないが 脳内に確実に存在する「流れ」であり 
それこそが 物質化を決める役割を果たしているのだ・・・と。
だから たかだかドラマだと思わずに 
感情教育への積極的な関与を
私は 此処に お奨めしたいと思います。
そして 我々の未来にもしかすると待っているかもしれない
死生観についての物語は このブログに
『勧誘者の名』 又は 『20××年の召集令状』を
適いますれば お読みくださいませ。

nice!(7)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

七瀬を映画化するならば [小説と映画]

『家族八景』は 火田七瀬がテレパスとして自覚を持つまでの
噺として 『七瀬ふたたび』の冒頭にあっても良いかもしれないが
まぁ 『七瀬ふたたび』がメインだろう。
『エディプスの恋人』は 実写向きではないと思う。
実写だと 3Dとかにしたくなるのだが あの宇宙論は 
やはり アニメ向きかも知れない。 宮崎駿さんが引退された今
大友克洋さんのグループが 挑戦されるべきなんじゃないかしらね。

それで 『七瀬ふたたび』の実写版にせよ『エディプスの恋人』の
アニメ版の声優にせよ 石橋杏奈さんが 適役だと思う。
英語のラップを 意味が分らなくても歌えるという耳の良さも
実は テレパス保有者を演じる上では 妙に 適合するはずだ。
NHKの『LIFE』というコント番組に彼女は出ている。
見た目の容姿的に 火田七瀬にかなり近いと私は思う。
『花子とアン』に出演している(醍醐さん役)の高梨臨さんも
七瀬的ではあるけれど 彼女は キアロスタミ監督作品に出ている時と
醍醐さん役だと かなり 演技が違うので 監督の力量に相当左右されてしまう
タイプなのかもしれない。まぁ 現存する映画監督で最も
高い力量を示すキアロスタミだからね・・・。

一方 石橋杏奈さんは アホらしいコントでも
たとえば 一本眉のウッカリ暴走娘を演じても 駄洒落美女を演じても
軸がブレない。 ホークスのコメディ定義~人は他人の真面目すぎて
仕出かす失態に笑って共感する~にきちんと適合している。
無論 彼女がそんな定義をご存知だとかそうでないかは問題ではなく
女優の資質としてコメディもできるということは 悲劇のヒロインも
こなせるのは 古くはキャサリン・ヘップバーンで 最近では
干物女と新島八重や橘咲も演じられる綾瀬はるかさんで我々がよく知るところである。
じゃあ 綾瀬はるかさんが演じるべきかとも言えるが 大女優だから・・・。 
ところで  万能鑑定師・Qは シナリオがバタバタしていて映画としては 不出来。
ホリプロももう少し シナリオで出演判断した方が良いと思うけど。
綾瀬はるかさんは もう大女優なのだから。 

 七瀬は 得体の知れない美女でありスペックホルダーとしての
矜持を背筋に一本 ピンと入れているハードボイルドハートの女ですから
このキャスティングで 全ては決まる。
昔 家族八景のドラマ化で 中山千夏さんが七瀬だったのだが
不気味なホームドラマという印象ばかり残って 困った。
無論彼女は 名優なので 七瀬になりきっていたので説得力はあったと
子供の時の記憶だけれど ある。他の時に観る中山千夏ではなかった。
そして彼女は七瀬を演じ 『あなたの心に』なんて歌を出して
やがて 政治家になるだろう。 
火田七瀬という役は 演じる方にも覚悟が要るかもしれない。
nice!(5)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

悪夢ちゃんで 共通無意識かぁ [小説と映画]

悪夢ちゃんというドラマで 共通無意識が出てきましたねぇ・・・子供向けの感が否めなかったけれど どっこい なかなか ハイレベルといいましょうか。

この共通無意識というのが 大切なんです。ここへのプリセッションができるかどうか それが 小説なり映画なりの存在意義です。プリセッションは地球の歳差運動とも翻訳できますが 此処では リップル=水滴が水面に直角に落ちると 波紋が広がります。あれです。共通無意識領域にどう波紋状に何かを伝えるかです。

勿論 顕在意識に何を残すかが問題になりますけれどね!R.バックミンスター.フラー博士が 『自分は人工物で人々の意識を変えるのであって 何かを伝導したり宣伝したりはしない』と仰るのに対して 私が アブノックス作業でどう行うかのPathが 今夜 明確な光として私の目の前に射し込んだ感覚であるということです。

そして 北川景子さんが 思いっ切り耳が見えるまで髪をアップにしている横顔を眺めていたら 私が24歳か25歳で書いた村上春樹さんの『羊をめぐる冒険』のシナリオで撮ったような映画フィルムが私の脳内でカラカラと廻りました。

そうか・・・彼女で耳女こと私のシナリオでは【イヤリン】は撮れる! でした。      スイマセン 法螺噺です。でも もしも万が一私のシナリオで私が『羊をめぐる冒険』を撮るとしたら 必ず出演依頼をするでしょう(笑) ただ困ったことにそのシナリオ自体は私の手元に残っておりません。村上春樹さんのお手元にも残っていないでしょうから・・・・困った。うっすら覚えているだけなんだなこれが・・・・。もう30年前の手書きのシナリオです。冒頭だけは明確の覚えている。あとは 羊に出てこない双子ストーリィを混ぜた記憶があるのだった。 まぁいいか。 その時になったらなんとかなるだろうさ。人生とはそういうものだ。 

ところで 昨夜テレ東で恒例の『やりすぎコージ都市伝説』やってましたね。相変わらず面白い。ビルゲイツが本気でこの番組に噛みついたというから本物ですね。そしてフリーメイソンが フラー博士が指摘していた海賊の成れの果て?ではあるもののイルミナティではないのがよくわかりました。番組ではそんな指摘は一切していませんでしたけれどね。イルミナティなる目に見えない権力構造組織に対抗する組織が  フリーメイソンってことになる。フラーは海賊を追い詰めていったのは東インド会社だと遠回しに記述しています。『パイレーツオブカビリアン』でも海獣よりも恐ろしい存在として東インド会社連中を描いていましたね。ハリウッド的はリップル というよりも  『メンインブラック』のようなハリウッド的リークでしょうか?

2013年そろそろ彼らが日本のテレビ局で堂々と中南米組織なら撮影許可したのも頷けます。そしてその中南米組織のトップが胸に飾っていたのがアーモンドアイ型のグレイスキン、異星人(のロボットですけど・・・あれは)のブローチでした。

ちょっと思いっ切り横ずれしますが 8か月ぶりの平均株価1万円代復帰を今度の総理大臣の殊勲のようにマスコミ報道していますけれど  だったら野田総理の時 1ドル79円代の時に平均株価1万円代だった増税法案可決に猛進してた時をどう評価するんですかね? どう評価していましたっけ? 3年前の政権交代時 私だってあの事業仕分けってのに相当期待してましたけど・・・おそらく同じことになるんではなかろうかという実に厭な予感がしておりますですよ。  どうなることやら。


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

手短に 呟く程度に(ボルヘスとマルケスについて) [小説と映画]

ボルヘスは 詩である。 『バベルの図書館』にしろ あの反・世界『トレーン』にしろ 数学・・・きわめて 幾何学的なイメージを読者に煌めかす。

マルケスは 映画にできない映画を小説にする。『落葉』は『羅生門』     さて・・・『百年の孤独』は なんだろう。シュトロハイムの長大な映画の題名を失念してしまったが なんだか あのイメージが浮かんでくる。     それとも グリフィスの『イントレランス(不寛容)』なのか?ビスコンティの 『夏の嵐』を映画欄を担当するためにヨーロッパ派遣されていた新聞記者だったマルケスが 映画を撮りたくて撮りたくてしょうがないけど 映画を撮るわけにいかなくて 書いた小説であろう『百年の孤独』。

但し 漱石の『門』のような映画は誰も撮れないだろうし フローベルの   『ボヴァリー夫人』のような映画は 溝口健二が撮ってしまったけれど。   グリフィスの『散りゆく花』は 明らかに チェホフの『オーレンカ、かわいい女』のような映画を撮ろうとして撮った映画だと 私のような似非映画批評家は 定義するだろう。 

ボルヘスに憬れはしない。 私は ヴォネガットに憬れている。ただ 吉行淳之介が 幾何学的な抽象画のくせに 心和ますパウル・クレーを愛し クレーのような小説を書きたいと願い続けた事実に ただ 共鳴していたと思うから タルコフスキーの『鏡』のような映画、 小説が肉体をまとい 夜の 静寂に夢見をし それを感受してしまったかのような小説を 書けたりしたらば 奇蹟を顕してしまったと 思うだろうな・・・。 

まぁ それは 私の仕事ではあるまい。 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

パラレル・ワールドですよね [小説と映画]

民間放送のテレビドラマとしては 2年がかりの大作となった『JIN』が終わりましたね。

結局 死生観というテーマに 我々は 今年の大地震と大津波で 否応なく

そのエグニマ(永遠の謎)に誰しも引き寄せられてしまっていますので

予兆的なドラマでもあったわけですね。

そして パラレル・ワールドというテーマに 私も1994年ぐらいから 引っかかって

レイ・ラブロック博士の著作なんかも読みました。

今日 池上本門寺さんの 写経会で 野坂ご上人の法話で 

末法の世で 法華経を護持し 布教する事が命がけであることを説く

第13 勧持品を解題賜りました際に ギュスターブ・フローベールが

『ボヴァリー夫人』を命がけで書き上げ 命がけで世間の無理解と非難を

乗り越えて 近代小説の規範となる作品を世に出していったことを

例として挙げられ、 日蓮聖人だけでなく 人は 先駆けて事を為す際には

全く命がけになること まさに 宗教だけでなく 文学であれ なんであれ

洋の東西を問わず この 苦難に立ち向かう勇気の大切さという

人間としての本質的な価値について 妙法蓮華経・勧持品には 

おしえとして存在するというご説法でした。

宮澤賢治さんを例にされると思っていたところ 意外な名前が出てきて

驚きました。 私は 『ボヴァリー夫人』の映画的な描写力にかなり驚愕し

夏目漱石の映画的な感性、あの低廻趣味や 間隔論(映画監督読本のようです)に

触れた際に 映画に迂回した私の人生は 16歳の頃の軌道に戻されたりしました。

1998年 40歳になる年の曽祖父が52歳でスペイン風邪で亡くなった命日の日付で

私は この世からアッサリと 自動車に跳ね飛ばされて 

オサラバしてたかもしれないのです。全くの自分の不注意で。

 浜町の藪蕎麦鴨南蛮そばを食べて 気分は頗る良かったのですが 

ポータブルCDの調子が買い替えたばかりだといのに まったく悪く 

私はそちらにばかり気が向いて 6車線一方通行の清洲橋通りを

(明治座の真ん前ですね。当時は旧明治座の取り壊し工事が始まっていたぐらい)

信号無視して横断していたのです。 何台かの猛烈なスピードで走り去る自動車に

私は全く懼れることなく マイペースで歩いていました。パラレル・ワールドで

おそらく私は あの日にあの世に逝っておる・・・今でもそういう感覚が沸き起こる

事が あります。しまったな・・・なんで 生きているんだろ・・・と思うことも

よくありますのが 全く 困ったもので・・・。

 今日の『JIN』の結末を観ると 私が2001年には第一稿を書き終えていた

『巨乳といふこと』の結末(というかこれが事の始まりになる終わり方)を思い出し

パラレル・ワールドというキーワードとは つまり 

未来は 白紙・・・ 無限なのです。そして 今日を変えれば 明日は変わり

いつの日にか 過去さえも 変えられる明日を 今日として手に入れる事もできる。

それは 物質的な極端な変容である必要などない。

ただ 自分の意識と自分を取り巻く環境が それなりに変わっていればよいのだ。

あのまま 何も変えずにいたら きっと 私は こうなっていなかったし

私のあの過去のミスジャッジによる人生転換も 今なら そのお蔭で とさえ言える。

そういう明日を今日として生きられる・・・それが人間という生き物の特性なのかも

しれませんね。

ひょっとすると 法華経=妙法蓮華経は そういうことが起こって当然だということを

人々に受け入れさせるべく あの不思議な不思議な 方便(たとえ話)が

寓話的に連綿と書かれているのでありますまいか・・・・。

勿論 勇気という人間性において もっとも気高い徳性を きちんと

人々に導き示しながら。

そして 「名前も思い出せないが 確かに 存在した〇〇〇先生に手紙を書いた」

橘咲さんのような女性の強さを 私も 書いたつもりなんですがね。

切なさが 残ればよい。 芸術作品は なんであれ 切なさを賦与叶えれば

それは 人間としての美しい行動、言動、思考をさせる感情を教育した

ことになるからなのですね。

芸術は爆発だ?・・・ いや 身を切るほどの切なさだ! 

セリーヌ『夜の果ての旅』の主人公が 叫んだとおりだ。 

相変わらず とりとめもなく 失礼致しました。

ところで 『JIN』の橘咲にフォーカスした スピンオフで 映画版を制作する・・・

TBSもそのくらい もう 企んでいるでしょうね。 いいんじゃないでしょうか!

大河にいきなり主演も決まった綾瀬はるかさん 大変っすね。

『いろはにほへど物語』に出てもらえる時間あるのかな・・・などと妄想で

心配しても仕方ないが まぁ そのときは そのときだ。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

日本映画[監督・俳優]論 という書物について [小説と映画]

 

萩原健一さんと絓秀実さんの対談形式。ワニブックスの新書。
絓秀実さんの巻末解説が なかなか唸る。
つかこうへいが登場する。中上健次も復活する。
対談中の萩原健一さんが そろそろ映画監督になることを匂わすあたりは
ゾクゾクする。 とくにご母堂の話は是非 実現してほしい。
絓秀実が『過剰なる存在』と萩原健一言い切るのは正しいと思う。
それは読めばわかる。その過剰さは危険なのだ・・・。哀しいけどね。
ロックンローラーとしてのショーケンが後半炸裂する。
ミックジャガーと同じ部屋で酒を飲み ミックとロッドスチュワートの喧嘩を眺めてる
なんてのを読むと この過剰なる才能の持ち主をどう取り扱うべきかは
そりゃ 誰しも たじろぐだろう。
一人で一度に五人分の人生を生きる男と形容しようか?
こりぁ 大変だ。生きるのが苦しいだろうと 胸に迫る。
もっと早く つかこうへいとショーケンが出会っていてほしかった。

 『青春の蹉跌』でショーケンが 手すりを指で撫でながら
「エンヤットット エンヤトット」を意味なく繰り返すシーンがあるが
それが萩原健一のアイデァだとは 初めて観たときから察しはついていたが
改めて 神代辰巳さんの回顧を 語る中で読むと 俄かに
竹中直人の『無能の人』で神代さんが鳥男を演じたシーンが脳裏に浮かぶ。
映画監督としての才能と プロデューサーとしての才能を併せ持ち
同時に俳優としての才能と マネーメイカーとしてのスター、美丈夫まで
引き受ける人生は 如何にも 大変だろう。
女にゃモテるし 男にもいいよられるし 頭は抜群に切れるから世間が見えすぎる。
ゲラゲラ笑わせられてかと思うと 襟を正さねば と思わず背筋を伸ばすような
真剣な語りもある。 矢作俊彦さんとすごくよく似ていると 個人的には想う。
とにかく
軽やかに読めるし ショーケンは マキノ雅弘と同じで滅茶苦茶語りが面白い。
マキノ雅弘の『映画渡世』を読むおつもりで 対談を読まれるとよろしかろう。
黒沢明とカサヴェテスを語り合うあたりも お互いの映画オタクぶりが炸裂。
そして 絓秀実さんの巻末解説で 読者は 別の場所へ連れ去られる。
そこから眺める 萩原健一は 
♪ ドォーは努力のドー!と歌い続ける金剛力士のような存在だろう。
つまり 神話的な勤勉さを人類に示唆する存在として 見えてくるだろう。
中上健次の小説の登場人物が
神話的な振る舞いを してしまう あの 悲しみと栄光が 蘇ったりする。

 ♪ジャズを聴けジャズを ジャズを聴けジャズを
と口ずさみながら バッハのブランデンブルグを聴いて小説を書いていた
中上健次が のっそりと立ち、 萩原健一の傍で笑っている。
読み終えた瞬間そういうイメージを私は垣間見た。
私にとって 予想外にも そういう書物になるだろう。
そして同時に こう思った。
私も萩原健一さんを見習って 観音経と般若心経を毎日読誦する精進を
せめて怠らることなく続けようと。
そうそう ショーケンも『三船敏郎さんの再評価』を熱く語っていた。
続篇があるとしたら 是非 溝口健二評を語ってほしい。
黒沢明にちと偏っていたけど まぁ それはプロデューサー萩原健一の才能。
商売しなきゃ♪と精進努力するのは観音様への深い帰依ゆえなるかな?
ということで、
前略 萩原健一様 
今年の、浅草寺の小冊子9月号と10月号をお読みください。
東大の斉藤明先生の観音菩薩解説は 秀逸ですよ
と 届く当てのない ファンレターを記しておきます。


nice!(3)  コメント(2)  トラックバック(1) 
共通テーマ:

My little Lover evergreen,遠い河… [小説と映画]

岩井俊二監督の『スワローテイル』には余りいい感情を抱いていなかった。
正直に言えば敵愾心すら抱いていた。
『ビリー★ザ★キッドの新しい夜明け』の焼き直しをしやがって…とあらぬ思いを勝手にしていたので My little Loverにもゼルダを売り出してあげられなかった悔しさが残っていて 
敢えて関心を示さなかった。
しかし 偶々 evergreenを聴いた時 私は丁度
藤沢周平さんの『蝉しぐれ』を読んでいたのだが ヴォーカルの声に涙腺を
不意打ちされた感じがした。衝撃だった。特に曲の終盤に至って ララララ
ラララ愛を と繰り返すところで 自分が今読み終えようとしてる江戸時代を舞台にした
少年小説に余りにも感情を揺さぶられる点においてシンクロナイズしていたからだ。
そして 私は 結局のところ evergreenという曲を繰り返し聴きながら
『繭の時間』という短編小説を一週間ぐらいで書き上げた。
当時は勤め人だったし 広告代理店の仕事は多忙だった。眠る時間を削るしかなかった。だが evergreenという曲のお蔭で私は 書く事を生理的に厭わぬ自分を発見していた。
絵を描く事なら疲れを知らなかったが 意外だった。
ところで 『繭の時間』は現在 長篇というか中篇ぐらいの長さに書き換えられている。
そうなってしまったのは ルドルフ・シュタイナーの影響下で
他の小説を書き出してしまったからである。
そして シュタイナーの書物における 種子と水晶による思考と感情の行を続ける際に 
My little Loverの 遠い河 という曲が私を その一種の瞑想行を
始める合図となるのだった。
~遠い河を 流れている 別の時間を思っている
 あなたが もしも いないとしても 
 ずっと あなたを 想っている~
という歌詞が 私の中に浸透してゆき 『巨乳といふこと』という小説、いや
『テイル・スープ』と『テイル・ライト(テイル・リップルス)』という
二つの小説集は 造化の妙というテーマをジョイントしていくことになる。

 『蝉しぐれ』を黒土三男さんが 映画化したが 残念なことに
前篇と後篇に分けて制作されなかった。かなり長い年月を描いた小説なので
回想形式を 映画のストーリテイリングとしてどうしても用いたくなるが
やはり 原作の少年と少女の間に流れた時間を語るには 相応しくなかった。
主人公の父の不条理な切腹で前篇は終了できただろう。
そしてその父の遺骸を一人荷車に乗せて自宅へ引き取る主人公が坂に差し掛かった際に 周囲の冷淡な視線を破って 隣家の娘が 荷車の後ろを押す。
主人公は不意に少し軽くなった事に慌てて振り向く。
すると 隣家の泣き虫美少女が 泣きながら荷車を押していた。
主人公は その時 初めて父親の不合理な死を怒るべき涙を流した。
そして 親友の身に起きた絶望的な出来事に 手をこまねいていた友人たちも
少女の勇気に促され 荷車を押す。彼らは 同じ涙を共有する。
人間であることの本来の意義を ローティーンで知るドラマは 此処で
この小説の映画化が 終わってもよいぐらいだが
まぁ 後半 其々の青春グラフィティがあって
漸く 数奇な運命を経て 藩政に関わる者に成長した主人公が 
今や次期藩主の生母となる あの隣家の泣き虫美少女と 
数十年を経て 再開するラストへのドラマは 回想形式だと辛いのだ。
種明かしを先にしては 途中の波瀾万丈のハラハラドキドキが薄まる。
いずれにせよ My little Loverのevergreenが タイトルロール曲として
流れたら 客席から立てる人はそうはいまい。
~あなたのことを愛している ただそれだけで生きていける
ぼんやりとそう思ってたら なんだか勇気がわいてきた 
それは 気持ちに羽がはえたように 空を飛んでいく~
あの永遠の少女というようなヴォーカルの声で流れたら
人は自分の中に在った永遠の少年や少女を 良心とか魂と呼ぶべきだったことを
誰しもが 感情教育として受け取り 思い知るだろう。
映画や小説の責務とは こういう類の感情教育であるべきだと
私は 信じて疑わない。
私は その程度の信念に生きる者であることをやめたくないと思う。
たとえ 私が 無条件の愛を持って生まれてこなかったとしても
我々は 誰しも この私でさえ 無条件の愛によって 此処に生かされている。
その無条件の愛に 添うか添わぬか それが 問題だと私は思っているだけだ。


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:キャラクター
前の10件 | - 小説と映画 ブログトップ