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ソール・ライター展とBabel展について [美術]

書くのを忘れていた。
書けるうちに書いておこうっと。

先月 『ほぼ日』で紹介されていたので観てまいりました。

○ Babel展

まず展示の仕方が巧い。 お目当てのブリューゲルの『バベルの塔』へ
向かう通路に巨大なカラーコピーで否応なく本作との対面を
盛り上げるとか 映像展示で『バベルの塔』の中に入り込む
コンピューターグラフィックスが とても良くできていて
ブリューゲルが生きていて目にしたらさぞかし驚喜したろうと
思ってしまいました。

この絵画を私は学生時代の『Suggestion』という映画で
タルコフスキーとゴダールの真似をして引用しました。
実物を観る事はなかなか困難でしたし 今回は残念ながら
同時展示はできなかったけれど もう一枚 神の怒りを買う
寸前、塔が完成して異様を誇るブリューゲル作品があるのですが
それをオーバーラップさせたりしました。
タルコフスキーは 『ソラリス』と『鏡』に
ブリューゲルの『雪中の光景』を何度も引用していました。
その影響でなけなしのカネを遣って買い求めた
ブリューゲルの画集は未だ手元にあります。
そして 私は その画集から上記の二枚を選択したのでありました。

 そのお目当てに辿り着くまでに
15世紀のネーデルランドやフランドルの画家の絵画が
たくさん紹介されていました。
イエスキリストの真正面からのリアルな肖像画などという
当時未だ教会の圧力が強い時代ですから イエスの肖像、
しかも真正面からなんて ほぼ在り得ないはずなのです。
しかも どうみても その面立ちはモンゴロイド
つまり我々東アジア人にしかみえない。
毛髪は黒く艶やかで 口の両端にたくわえた細長い髭。
目は奥二重で やや眠たげな目つき。着用しているのは
どうみても中国的なデザインだし 首回りを飾る
宝石も ナザレのイエスを描写したとは思えないほど
金満家の如し。 でも イエスなんですよ。
更に マナの壺を捜索する画家 という作者名のある
『祭壇』という小さな絵画の前で私の足は止まってしまった。
マナの壺ですよ!どうやら当時のフランドルには
ユダヤ人の画家たちが 実名を明かさず絵画を世に出していたらしい。
そして そのユダヤ人画家は おそらく
イスラム統治下にあったイベリア半島から逃れて
ネーデルランドやフランドルに移住してきたユダヤ人でしょうが
しかし 祭壇に捧げられているのは
麦ではなく 米 稲穂なのです。 
伊勢神宮にある三種の神器にマナの壺と思わしき存在がある。
それを明治初頭に発見した欧州の学者が
やっぱり 日本人は 古代イスラエル十部族の可能性あり…。と
伝えたとか。日本人は幼児の頃 ごはんを まんま というでしょ。
という想定外の驚愕に不意打ちを喰いながら
『バベルの塔』の実物を目の前にする。
感想→ ゲッ こんなに小さな絵だったのぉおおお!であります。
画集にもサイズ表示あったし 大きな絵ではないという解説を
読んで記憶もしていたけれど 愕然とするほど小さかった。
フェルメールの実物をヨーロッパで観たときも 
ここまで ちっこい絵だとは・・・・思わなかったし その美術館に
辿り着くまでの飛行機代とか列車代とか思うと 半分泣いて
半分笑ったけど まぁ 混雑した日本のフェルメール展で
見えるよりか ましか と気を取り直した記憶が蘇っていた。
まぁ今般は 上野までの電車賃だけだし 混雑してなかったし
画布素材や絵具の乗せ方 パレットナイフの抜き方まで
おぉう ガンミじゃん!って もう 画家になんかなれないし。
どうでもいいんですけどね。
しかし とんでもない細い筆で丁寧にタッチしている個所ばっかり。
パラノイアじゃないとできないですね。こういう仕事は。
水玉ばかり描いている女流画家さんがいますけど
『バベルの塔』でも虫眼鏡でよく見やがれ!と言いたくなっちゃう。
で その後 ほぼ日のヒグチユウコ展に行こうと思ったのですが
まぁ 明日にしよッ と帰宅してしまったので そちらは
結局観賞しませんでした。上野に行くとどうしてもアメ横で
胡桃を買って帰りたくなるので。

○ ソール・ライター展

こちらも『ほぼ日』での紹介記事を読んで。
ヴィヴィアン・マイヤーという無名のまま老いさらばえて
死に絶えて 撮りまくった写真を危うく全て焼却処分される
寸前だったのを 奇蹟のように救われて 
今や世界中で賞賛される米国の女性写真家がいらっしゃるけど
この男性の写真家も 若い時はモード雑誌の専属カメラマンとして
相棒のグラフィックデザイナーにも恵まれ 活躍していた
マイヤ―女史よりは れっきとしたプロフェッショナル。
但し 広告写真家として生きることを優先させ
安藤広重や葛飾北斎にインスパイヤされて
大胆な構図で 撮った写真を 公にしなかった。
マイヤーは自分で現像して焼き付けをする作業を
業者に任せていたので 彼女をプロと見做す事を拒む人も居る。
だが 待ってほしい。 ライターの作品をじっくり眺めると
この写真家が レンズを通して 鏡や反射しうる何物かに
映り込んだ像、ショットを描くために構図を選んでいるゆえに
ネガを自分でじっくり作る現像技術と印画紙への定着を
計算し焼き付ける技術は 
寧ろ彼の文体を成立させるためには そして文体は内容が決めるのだから
絶対に必要だったのだ。 ヴィヴィアンの撮影内容、テーマには
そのソールと同じ文体が必要じゃなかったでけなのだと 私は思う。
彼の雪や雨 更には結露した水滴に対する感受性の高さに
驚く事は 誰の目にも明らかだろう。
偶然を装った演出だってちゃんとしている。
とはいえ ヴィヴィアン同様街をうろつく時は
ソールも首からカメラをかけていた。しかも ライカの名機をね。
その証明というか 彼が偶然街で遭遇した事故現場の一枚があった。
報道写真としては失格かもしれないが
やじうまの肩越しを巧みに活かして 左上部のほんの片隅に
事故に遭って白目を剥く被害者の痛ましい表情が写されている。
わざと手ブレなんかさせていない。しっかりカメラの底部を片手で固定し
シャッターを押す指には ライカを揺さぶる如何なる衝動にも
適応する準備ができているような構え方をしていなければ
あんなショットは撮れないと私は思う。

無視されるという特権。
 彼は後日 最晩年80過ぎて再発見され インタビューで
そう 主張した。負け惜しみといえば負け惜しみだ。
だが 無視され続けたお蔭で 彼は徹底的に
孤立しえたのだ。ピアニストのグレン・グールドが唱えたのと同じ
あの「孤立」のことである。漱石が家族を抱えて居なかったら
その「孤立」を求めると書き残しているぐらいだから
芸術家のなかには そういう気分があるものなのだ。
ヴォネガット場合は「孤立」したいなんて思っていなかったが
家族が多すぎて「孤立」せざるをえなかった。
それが この小説家を類稀なるstorytellerに育てたのではある。
なぜって 余りにも小説家として淋しかったので
面白く語る術を必要以上に磨き上げてしまったのだ。
俺が死んでから こんなに面白い物語を書いてたんだ!という
人々の驚き具合を 
あの世に逝ってから見物してもいいものに違いない!
その気持ちは 私もよくよく解かる。
だから煙草をやめないのだ。

話が相変わらず横滑りをしたが

ソール・ライターが無視される特権のお蔭で得をしたのは
アラーキーかもしれない。
ソール・ライターが 絵画の素材にするために撮影した
恋人やテレフォンガールを撮影したヌード群のコーナーがあったが
あの荒木経惟さんのような 猥雑だからこそ愛おしさが極まる
そんな瞬間を抜群のアングルで撮っている。
どれも 素敵な猥雑の極北。つまり 孤立している。
プレイボーイ誌やポルノ雑誌ではお目にかかれない。
目の前の女性達に欲情することの美しさと正しさ を写し取り
尚且つ 彼はそれにドローィングをほどこし
絵画に仕上げ 自分にとってのヴィーナスへと崇め奉る。
まるでアラーキーじゃないか!
だけれど ソールは発表しなかったんだ。
60年代に彼がこれらの作品を発表していたら
我々は アラーキーを 別の荒木経惟として遭っていただろう。
So it goes そういものだ。
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@東京都美術館、古代エジプト展(メトロポリタン美術館所蔵) [美術]

古代エジプト展といっても新王朝時代紀元前 15世紀~12世紀までの
特に唯一の女性ファラオ、ハトシェプトと女神を中心に。

 上野の森を酷暑の中歩くと 夏空は立秋という暦に準じて
澄んだ碧さが 眩しかった。刷毛で描いたような雲が奔り
マッチョな積乱雲は どこへやら。吹く風と緑陰は秋を潜ませている。
だが あっつい!汗がとまらない。幸い古代モノであったため
冷房はきつめだった。この美術館のレストランローストビーフはおいしいが
それは 食欲の秋が来るまで待った方がよさそうだ。
連日そうめんのようなものばかり喰っている胃の腑が変な反応しそうで
やめておいた。   閑話休題。

エジプト文明と日本の文明になんら関連は無いと思う方が多いだろう。
しかし 十六弁の菊の紋章は 既にエジプト王朝で頻繁に使われているし
アーモンドアイの目鼻立ちに なぜだか親近感を覚えるのも
ひょっとすると 古代人たちは 我々現代人が想像をするよりも遥かに
勇敢で無鉄砲で 陸路などより海路によって新天地を求めたのかもしれない。
バックミンスター・フラーの『クリティカル・パス』にはその古代人の象徴として
イルカと漁をしたフェニキア人がどのように全世界を海の道を経て広がり
流れ着いた先々で 定住すればその先住者と融合を試みたかを想像させる
かなり画期的な海流を基準にした世界地図が存在する。
~教科書の地図だけでなく多くの人々がその地図で物事を考える日が
  我々人類に訪れますように!

又 パレスチナ問題の仲裁役に何故エジプトが登場するかといえば
古代イスラエルのヤコブの愛息・ヨセフは他の兄弟の嫉妬にあって
エジプトに売り飛ばされたが エジプトの宰相にまで出世して
やがてラ―の祭祀の娘である妻と共に
太陽信仰のオシリスとイシス、そして二人の間にできた息子ホルスの
原型として崇められることになる。 こんがらがるかしら?
神武天皇の東征が紀元前7世紀半ばですね。 その更なる千年前の噺ですから
確証など科学的に求められるかどうか分りませんが まぁ 彼ら中東の世界では
上記の事柄が バックボーンとして在り、モーセの脱エジプト記なんぞも在り
ともあれ エジプトが今でも 国連よりも説得力のある仲裁役をこなせる。
のかもしれませんよ。
 そしてこの展覧会の出展品は全てアメリカ合衆国の美術館のモノ。
ピラミッドにホルスの目。一ドル札にありますね。千円札の野口英世の左目が
裏から透かすと同様な図柄になる。都市伝説とは言い難い真実。
千円札の富士山を湖面に映し出すのは シナイ山・・・。
この国はもう五十何番目かの州なのか?

そんなシニカルな想いをしながら 美術展を眺めていただけではないです。

牛が描かれている線画を観ていると あらら ピカソの『ゲルニカ』の牛って
これからパクッたんだとか 
モディリアーニのアーモンドアイ白目だけの女性像ってのは
女神ホトホルのイコンだったのか。 目だけじゃない。鼻のカタチも
唇の感じもそっくりな木製のレリーフを観た時 作:モディリアーニという
文字を掲示板の中に探したぐらいまんまだった。
なんでモディリアーニの絵画を欧米では高く評価するのか私は漸く判った気がした。
実際 大した絵じゃないもんね。イコンすぎて 私は好みじゃない。
小さな彫刻作品に 王家の誰かが寵愛した女性歌手の今で云うフィギュアがあって
その顔つきが 面白いほど日本のオバチャン顔していて 笑いを堪えるのが大変でした。
古代エジプトの王家が コブシの廻った演歌ヨナヌキ音曲を愛してたりして。
それは もう 誰かタイムマシンでタイムスリップした奴のヘマでしかあるまい。

あぁ 暑くて食欲ないのに 痩せねーなぁ と水腹をポンポコ叩いて
夕方の上野の森を 他愛のないソフトクリームを舐めつつ歩いて帰った。
子供の頃はこんな暑い時は泳ぎまくっていたのになぁ
大学時代なんて プールの監視員してたもんな 
と 呟く始末は 我ながら後で嘆かわしかった。


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ギリギリセーフ!空海と密教美術展 [美術]

7月に開催以来、行きたいなぁと思いつつも 猛烈な混雑状況が 話題にもなり、しかも 猛烈に暑い中で 切符を購入するにも待ち時間40分というのが続いていましたので どうも 気おくれしておりましたが  谷中の母方の墓参も兼ねて そのまま オーギョーチーを喫し 国立博物館へと向かいました。 

明日がこの企画展の千秋楽ですから 午後でも切符は待ちませんでしたが 入館するまでに 30分は並びました。 明日なんかも凄い人出でしょうな。    しかし 並んで後悔はされないでしょう。 特に 音声ガイド(別途500円)はお勧めです。 空海さんの残された言葉を 北大路欣也さんのいい声でじっくり繰り返し聞きながら 密教のおしえを 目に見せ、感じ 観じさせるための 仏像立体曼荼羅の一端を 体験するのは とても良い時間ですね。 弘法大師・空海の真摯な想いは千年以上の時を超えて その真筆に活き活きと顕われて 芸術家としての偉大な側面が   書など解らぬ私のような者にさえ 文面の流麗さを眺めつつ 圧倒的であり 感動してしまいます。

この偉大な方が 存在しなかったら さぞかし 我が国は どうなっていたか分からんだろうな と 唸りました。 単なる仏教、宗教的にというのではなく、国家鎮護という点で、日本文化の独自性を形成するという点において、 弘法大師・空海が果たし続けているのでしょう。

※パワースポットとかいう やや病的な関心が 流行ですけれど そんなさもしい心じゃあ 勿体ないですぞ。 別に拝んだり祈願してもどうだかなと 思いますが  空海さんという方のとんでもない情熱を千年の時を超えて感じられるという 空海パワーを励みにされるべきかと存じます。そのパワーと我利我利亡者と真逆なる自己犠牲だという事実をきちんと受け止められないような貧しい感受性では ご利益どころか変なモンに取り憑かれたりするやもしれぬので あくまで ご自分の内にある純粋さや 真摯さと再び巡り合えるという 大いなるご利益は期待大ですぞ。そういう意味での パワースッポットかと。 運がよくなるんじゃない。運を掴み取る内なる真摯さを鼓舞させて戴く のでありますな。 世の中には畏敬の念も正しく自己教育する努力もせずに 徒に目に見えない悪霊の霊力なんぞによってシアワセニシテモライタイ・・・なんて危険な思い違いが流行っておりますが それは 危険だから くれぐれもお気を付けくださいませ。とはいえ 大曼荼羅の前に立つと 不思議な感じがゾクゾクっとしますけれどね。 そりゃあ なんか不思議な力があるんでしょうけれど おそらく宝くじに当たるような危険な好運など 弘法大師空海様が衆生にもたらすなんてことは なさらないでしょうな。千年の時を経てもね。

それにしても 芸術の秋にこそ開催期間があってほしかったですね。


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フェルメールと小津 [美術]

フェルメールの静かな光に満ちた世界は 消失点を決め

モデルをその消失点を目安に立たせ そして小物を配し アングルを固める。

そのとき 彼はフィルムのないカメラのようなものを 設置し

レンズ越しに 目の前の世界をカンバスに写し取る。光の粒を求めて。

そして近年のレントゲン撮影などの研究によれば 彼は ドンドン引き算して

モデルたちをより浮き上がらせる選択をしてゆく。

当時の市民階級を顧客にした風俗画にも 「読み解き」が 王侯貴族を顧客とした

宗教画のように 小物などに意味を暗示させていたのだが

フェルメールはそういう読み解きによる「物語」を排除してしまう。

手紙を読みながら 窓辺の光の中で何度も手紙の文言を小声でつぶやく

女の仕合せと不安の入り混じった気持ちを 美しい光の世界に

永遠の時間と共にカンバスに閉じ込める。描かれて数百年経っても

観る者に 普遍の物語を 語りかける力を湛えている。

このフェルメールのライティングを グリィフィスのカメラマン ビリー・ヴィッツアーは

映画の父と呼ばれることになるグリィフィスに進言するだろう。

フェルメールのような映画を撮った男である日本人映画監督

小津安二郎は フェルメールのように 過剰な物語性を排除し

数百年経っても 観る者に 永遠普遍の感情を静かに揺さぶる可能性を

フィルムに焼き付けた。そして その映画の殆どをカメラマンとして支えた

厚田雄春は カメラ位置とアングルをハリウッドスタイルよろしく

監督の小津に委ね 光、光線の設計にその比類なき技量を発揮した。

それは グリィフィスの相棒でありカメラマンであった ビリー・ヴィッツィアーの

関係を 敷衍しているのであった。


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思考の賜物 [美術]

梅原龍三郎画伯が 師事した オーギュスト・ルノワールから
『絵画は 手で描くのではない。目で描くのだ』と再三言われたという。
戦中 小説を書く事を拒否した志賀直哉は
その梅原のアトリエに入りびたり、絵筆をとった。
後年 梅原は 友人にこう言ったという。
「志賀の野郎が絵描きにならんでくれて 助かったぜ」と。
梅原が 焦ったのは志賀の「見る力、見抜く力」だった。
でなければ あのような小説は逆に書けないということでもある。

過日、NHKで岡本太郎の伝記ドラマが放映されていたが
驚いたのは あの岡本の著作が 殆ど 淑子さんの聞き書きだったということだ。
岡本太郎の絵画は 明らかに思考の賜物として衝撃的であるにも関わらず
その衝撃性を支えた思考の構築物、つまりクリエィティブ戦略は
恋人であり 実際上の妻であり、太郎が自分の絵画を売らない主義の画家であったことから
その著作権と作品の散逸を防ぐ為の 養女だった淑子さんの筆による
著作物という形で存在していたのだった。
一平とかの子の激しく互いを支え合う芸術家カップルの遺伝子は
こうして別の物として継続されていたのには 却ってほのぼのと心を寛がせてくれる
何かがあった。

さて。目という五官器官は 一番脳に密接な器官である。養老猛先生だったかな・・・
「目は脳の突起物みたいなものだ」という解剖学的な アングルで語っていたのを
読んだ覚えがある。
絵画にしろ美術は 概ね 思考を積み重ねた氷山の一角が 作品という形で
表現されて 他者の脳に 思考を呼び覚ます力があるものを
私は 「私にとって 傑作だ!」と叫ぶことにしている。
だからといって 「なんだこれは!と顔を背けさせるような 不快感という感情を
恐れない表現が 芸術なんだ」という岡本太郎のフレームワークを
額面通りになぞ受け取りたくはないのだ。
確かに 不快感という感情すら恐れないというのは 素晴らしい。
寧ろ 俺は不快感をインプレスしたいぐらいだというからには
その生涯、その生活が 普通の人々が 社会通念と呼んで 依拠しているが
そのくせ 本質的な仕組みなど全く理解できていない曖昧な思考のようなモノでしかない
社会通念とやらとは 一切合切 交際を自ら断たねばならない。
その辺は 太郎さんは そういう両親の元で育ったのだから さほど違和感もなかっただろうが
淑子さんのは方は 想像を絶するような精神的葛藤の連続だったはずだ。
私は 「ありうべき家族」とか「ありうべき仕合せ」という曖昧な思考のようなモノたる
そういった通念に懐疑的ではあるが 体質的には結局それらをスプリングボードにする
感性は持ち合わせてはいない。その自分の感性を 私は決して「勇気がない」などと
卑下するつもりは無い。そこまで 岡本太郎&淑子に 無理して擦り寄るのは
逆に彼らから遠ざかる手段になるだろうとすら思う。
勿論彼らも お互い世間と戦っていた時節には 彼らに無理しても擦り寄ってくる
いわゆるエピゴーネンの方を表面的には 歓迎していたかもしれないが 腹では
顔を顰めていたかもしれない。・・・・芸術家とは 概ねそういうものだ。
まぁこういったような嗜好を私は持ち合わせたのは 『エセー』ばかり読んでいたり
高校時代 『親切な物理』という変なネーミングの参考書(名著だそうだ)を
愉しんだことが関係していると思う。 親切なというネーミングに反して
チャート式のような多色刷りでもなく、物理なのに妙に飄々とした文章が
ダラダラと書かれていたのが へそ曲がりの私の性分には感情的に頗る愉快が先立ったからだろう。
こんなことを顧みると 広告クリエィティブというものが思考の賜物であるのに
感情にどう作用するかを突き詰める作業に他ならなかったのだから
人生というのは 自分で判断しきれないものだ、とつくづく思い知る。
脇道と思っていた経路が やはり 本道だったりするのかもしれない。

北斎漫画を模写し その芋版を古美術商に持ち込んで 遊蕩費を賄おうとした
岡本一平は 脇道として歩んだ社会批評漫画を描き それを脇道と思っていた。
だからこそ 妻のかの子には 小説家という本道を歩ませようとした。
そのプレッシャーはやがて 息子の太郎に やや八つ当たり気味に及ぶ。
しかし 太郎は「俺は画家なんかになりたくはなかった」と哭き、
「一流の画家、一流の芸術家って一体何なのよ」と太郎の恋人を追い詰める。
岡本太郎の絵画は あの線とフォルムが 『無根拠な自信』に支えられて
躊躇いなく画布を切り拓くから 爆発だ!と我々にインプレスすることができるのだが
その『無根拠な自信』は 父・一平の遺伝子無くして在りえないのだ。
人生とは そいういものだ。


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果たして50分待って観るべきか~オルセー展 [美術]

美術館の外で待たされたわけではないが
館内をクネクネと列を為して 漸く観ても
な~んだ セザンヌのサントヴィクトワール山も1枚しかないし
ルノワールが一所に展示されるどころか1枚もない。
ピカソも構成主義の1枚がセザンヌの対面にあるのが
せめてもの償いのような・・・。
ゴーギャンもアマチュアっぽい習作しかないっすね。
スーラとかドニばっかし。
私の大好きな ドガとロートレックもお茶を濁す程度だし。
フェリックス・ヴァットロンも肝心要の絵が来てないや。
ただ ヴァットロンの自画像は アングルの踏襲を
しっかりしていて なるほどなぁぁぁと唯一感動した。
にしても 日本人はどうして画学生でもないのに
絵を間近で観たがるんだろうか?
ゴッホの白いレストランの絵だって 遠くから観ると
実在するような美しさが分かるのであって
ゴッホがなぜあのレストランを描いたか
あのレストランに対する感動を共有させようとしたのか
間近に観てたら 
あのいたいけなゴッホと同じ感動を共有できませんよ♪
ゴッホのよいところは 死して尚 
ゴッホがある対象に対してしていた
感動や感謝や賞賛がそのまんま 時空を超えて
伝わってくるとこだと 私は思っております。
だいたい 画学生や画家じゃなきゃ 
ゴッホのタッチなんか真似できません。
写実的に描きこんだ下絵があってこそあのタッチが
時空を越えて 実在感をもたらすのですよ。
ゴッホが絵の具を溶くのに何をまぜたかなんて
素人どころかプロの画家でも絵を舌で舐めてみなきゃ
分からんぜよ(笑)
ゴッホがあれだけ命懸けで描いた絵に
どうか失礼にならんように ご鑑賞くださいましね。
『星降る夜』も遠くから観て御覧なさい
・・・ウットリするよ。
間近で観て御覧なさい 
・・・ゴッホがいい加減飽きて
敲きつけてるタッチを発見して何が面白い?

私は学生時代 ルーブルとオルセーに行った際
日本人がぞろぞろ並んで
絵を間近で眺めているのを フランス人が
「なんでだろう?」と不快感を露にしているのを
見たり聞いたりしてしまった。

絵は構図と色の構成 フォルムや線の独自性などなど
ある一定の距離を以てじっくり観ないと
画家がした思考の賜物を受け取れない。
しかも印象派は 思考の賜物が物理学的だから
消失点など 無視して構図を再構成したり
やたらと光学的なのだが 若冲ほど悧巧じゃない。
ジャポニスムが誤解の上に成り立っているところは
微笑ましいのであって 別に我々日本人が誇るほどでもない。
寧ろ 不思議なのは 日本が衝撃を受け続けてきた
中国や朝鮮の美術が ダイレクトに
なぜ欧州へ伝播しなかったのか・・・だ。

ま そんなことも どーでもよいことなんですよ。

あと お子さんの情操教育にはよくないです。
東京都現代美術館のジブリ展のほうが お子様には
余程よい情操教育になりますよ♪
しかも隣接する木場公園は 子供には楽しいもんね。
乳母車に幼児を乗せてまで並ぶかね?と思いますよ。
幼児に思考の賜物を説明するほど英才教育してもね・・・。
却って絵嫌いにするだけかもしれませんな。
「暑い中 わざわざ行列して 此の程度の絵かよ」
私の近くにいた小学生低学年の少年が
そう呟いて 不貞腐れていましたが
彼は 正しい! 私も彼に同感だ!
ご老人の方々も まぁ 観なくても後悔しないはず。
寧ろわざわざ並んだことを後悔するはず。
スーラやドニの大ファンなら ご無理ゴモットモですけど。

因みに暑い寒いが極まる時候は
この新国立美術館は千代田線の乃木坂駅からのほうが
身体的には楽です。六本木駅はね 日比谷線にしろ
あのシェルターかと紛うほどの大江戸線からにしろ
いかがわしい裏通りを覚悟せんと辿り着けない。
大八ラーメンの匂いが好きなら楽しいかもしんない。 
にしても
どうして大江戸線は モスクワの地下鉄のように
長くて猛スピードの一直線エスカレーターを
真似しなかったのかしらね・・・
あのぐらい猛烈なスピードで勾配がキツイほうが
エスカレーターを駆け下りたり 駆け上がる
愚か者が減っただろうにと思う。安全とマナーが
同時に担保されたと思うが
ま 今更どうしようもないことなんですけどねハハハ


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spiral or ripple 御舟それとも忠則か [美術]

速水御舟は 東京美術学校(芸大)ではなく 浅草の画塾で14歳から学び
21歳のとき、横山大観をして 御舟の絵の前に座り込み「うめぇーなぁ」と文字通り唸らせる。
そして 31歳で描いた『炎舞』は 目に見えないはずの空気まで描ききる。
彼はその後 『群青の舞妓』という絵で スーパーリアリズムの間違った方向性を
コテンパンに叩かれる。舞妓の顔が 浮腫んで青黒く 妙に汚らわしい印象を与えるのだが
畳の目や群青の着物は 実物が平面に貼られたような常軌を逸した描写が際立ちすぎていた。
人間の女性美よりも御舟には 舞妓が着ていた群青の着物の方が彼の目には美しすぎた。
その見る目のままに天才の筆は 画布の上に疾走したのだ。
「絵は手でなく 目で描く」ルノワールもそういうように。そう言ったのはダ・ヴィンチが先かもしれない。
御舟は 画家としてはじめて味わう挫折を乗り越えようと西洋絵画研究に没頭する。
解剖学にまで探求は及ぶ。しかし 日本画の大家として更なる飛躍を作品に昇華する前に
彼は 40歳で腸チフスでこの世を去る。人生とはそういうものだ。
画家ぐらい 学歴があてにならない職業もない。
31歳で早世した三岸太郎や20歳で逝った関根正二も 正式な絵画教育など
殆ど受けていないが 裕福な友人から借りた高価な画集を手本に
ひたすら見て 模写して 高度な技術を自分なりに想像して獲得してしまった。
つまり 画家ぐらい「頭の良さ」を画業達成に求められる職業もなかろう。
学歴によって保証される頭の良さなど せいぜい「記憶力のよさ」や「つまらない勉強を遣り通すコツや多少の我慢強さ」ぐらいのものでしかないのだろう。

『自分を活かしきる戦略を自分で立て その戦略を達成していく為に必要な
戦術をあらゆる局面で 自分の頭で考えて組み立てることができ、
即興で未知不測の事態に対応できるほど 応用力とガッツがあるかどうか』
それが本当の能力としての「アタマの良さ」なのではあるまいか

御舟が描いた『炎舞』にも、西洋絵画研究後の女性像にも 「らせん」構図という
不思議な構図を用いている事が
最近 御舟最晩年の未完の絵が発見されて判ったそうだ。
その未完の女性群像図には 明確に らせんの下書きがあったからだ。
炎を見詰め続けた 若き日の御舟の目は この世界が
「らせん」に満ち溢れていることを直観したのだろう。
世界とは  おそらく造化の妙なる流れ(造化の妙)が
時間という次元にもなり 空間として 又 線であり面にもなって 粒子たちがらせん状に
滞っては 現象として現われ そのらせんが又次のらせんの振る舞いに
呼応して渦を徐々に解きほぐしては また渦を描く
我々が「宇宙」とか「世界」と呼んでもいるし 又 そこに実存していると
思い込んでいる 現象のしどけない危さと奇蹟的な美しさを
炎を見ることで 観たのだろう。

以上は 昨日の朝 NHK『日曜美術館』で御舟の特集をしていたから知ったことです。
『らせん-造化の妙』は 私の個人的見解。
そして その夜の日曜美術館の再放送には 73歳の横尾忠則さんを特集。
なんと 横尾さんは 今 水面の波紋に見せられているという!
いきなり 画布に ぐるぐると波紋を描く 横尾さん。
ええぇぇ? 速水御舟の「らせん構図」?!
おそらく昨夜か今日 横尾さんは早速 速水御舟の画集を開き
その模写を試みていらっしゃるのではあるまいか?などと勝手に想像している。
昨日の番組編成は ひょっとすると 
御舟のらせん構図とヨコオの波紋構図つながりを 意図的にしたかもしれない。
しかしね・・・偶然かもしれないなぁ。
私にとっては久しぶりの必然的な 遭遇でした。
もしも 横尾忠則さんが ルドルフ・シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』の
装丁をなさらなかったら 私は 『テイル・スープ』や『テイル・ライト』という小説を
書こうなどとは 思いもよらなかっただろう。
そして その本を読まなければ 
造化の妙に惹き寄せられ その正体?を解き明かす意志が 私を突き動かし続ける事態など
この人生に起こりうるはずもなかったのだから・・・・。
そして『安眠屋』などを収録するはずの『テイル・ライト』は その題名を
『テイル・リプル』~Tale Ripple に変更される日がくるのかもしれません。

速水御舟展は 10月1日(木)~11月29日(日)まで開催される
『新美術館開館記念特別展 速水御舟―日本画への挑戦―』
東京広尾 新「山種美術館」 
アクセスは 恵比寿駅より →http://www.yamatane-museum.or.jp/news.html 

炎舞.jpg

ちなみに 横尾さんの今日の日記は こちらへ飛んでください →http://www.tadanoriyokoo.com/vision/index.html

で 一面識も今のところございません 横尾さんに メダカもいいけど ホウネンエビもかわいい

とお伝えしたい

ホウネンエビ.jpg


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横尾忠則さんには ミーハー的になるしかないんである [美術]

現在ボクが棲息しておるのは 池上本門寺さんから上池台に向かって
歩いて15分ぐらいの処である。夕刻の梵鐘が6時きっかりに聞こえる。
池上本門寺といえば 日蓮宗の総本山。
先月テレビ東京の『アドマッチック天国』で池上特集があって
本門寺さんのことも紹介されていたけれども
その中で 2002年の開宗750年を記念して 日蓮宗新聞社が
横尾忠則さんにデザインを依頼した腕時計の紹介があった。
日蓮宗時計アドマチ.jpg
ね。 日蓮宗だけど お題目(南無妙法蓮華経)が入ってない。
リストバンドに入っているかも・・・いえいえなかったです。
ボクの家は代々日蓮宗だから お題目が刻されていても
「ありがたや」ですけれども 入ってないというのが
『あぁ やっぱり 横尾さんは 凄いアートディレクターでもあるぅぅぅ』
と 当然な事実に改めて 感動、悶絶致しました。
それと おまけ・・・というには 気前の良すぎる『日蓮御聖人ポスター』が
同時に届きました。
yw011-2.jpg
かろうじて 南無妙法蓮華経は 入っております。
でもね 日蓮さんの斜め後ろには 聖徳太子さんが いらっしゃる。
日本で初めて『法華経』を絶賛し 護持すべし!とされたのが
聖徳太子さんなんですねぇ・・・
同じ妙法蓮華経を護持する日本仏教宗派でも
道元宗とは言わないし 伝教宗とか最澄宗とも言いません。
又 阿弥陀仏の念仏ですら 親鸞宗とか法然宗とは名乗らない。
なぜ 日蓮宗なのか・・・・それがこのポスターには
描かれているのでしょうね。 絵解きではないですよ。
さて 日蓮聖人が書かれた南無妙法蓮華経、
文字曼荼羅を拝見すると あぁぁ 二重らせん構造だぁぁぁと
ボクは 息を呑んだことがある。横尾忠則さんも
日蓮聖人を研究し まるで アインシュタインの思考上昇エビゾリジャンプ!
てな技を ルドルフシュタイナーを経てなされ、
そして直観的に こーゆーデザインと絵になさったんだなぁと
勝手に思い込んで これまた 感動悶絶に至る次第。 http://www.tadanoriyokoo.com/


で。 ポスターカードが更なるおまけとして頂戴しました。
とりとめのない彷徨.jpg
横尾忠則画伯がピカソとタイマンはるに至った『Y字路シリーズ』から
2002年の『とりとめのない彷徨』。 信号機から伸びるのは
映画のクレーン撮影をしているところ。左が映画監督・溝口健二で
右がカメラマン・宮川一夫 でしょうか・・・「雨月物語」かな・・・
おそらくアートプラネット・ワイの横尾先生のご家族の方が
お選びくださったのでしょう(裏面にはボクの名宛でお買い上げ云々アリ)
偶然かもしれませんけれど、えぇぇッーと背筋がゾクゾクしましたね。
ボクは『いろはにほへど物語』という映画のシナリオを書きあげた
持っております。その演出プランもとっくにできております。
小津狂でもある小生ではありますが その芸者が主役の映画は
殆ど 溝口健二のワンシーンワンカットを目指し、
概ねカメラマンは 最初から最後までクレーンに乗りっぱなしという
演出プランを立てておりました。それが2002年ごろです。
天才・横尾忠則氏の幻想世界に 凡人・エイシュンの妄念あがきが
かすった瞬間でございます。
背伸びして ミューズ(美の女神)の蹠(あし)をくすぐらん 
と言ったのは川島雄三だったかな?・・・なんと羨ましい・・・。
天使になろうとして豚になる
と言ったのは パスカルだっけ・・・なんと 手厳しいことを・・・・。4125329.jpg
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エミリー・カーメ・ウングワレーを体験するか、しないかである。 [美術]

長い布エミリー.jpg六本木;国立新美術館にて開催中の
『エミリーウングワレー展』を観てまいりました。
外苑東通りから大八ラーメンに下る道を 今は
『龍土町美術館通り』と称している。懐かしい。決して神聖な経路ではない。
寧ろ大八ラーメンに象徴されるようにギトギトしている。何たる皮肉!
しかも新しい国立美術館は いかにもヒルズ族におもねったような外観・・・。
東京都現代美術館で開催すりゃいいのにと観る前から思った。
ウングワレー画伯の画業にはすっかり面食らったし 魂まで持っていかれたがゆえに
尚更 東京都現代美術館に頑張ってほしかった。木場に建つ 現代美術館ならば
観終わった後に 人工的とはいえ 大いに木々が生茂り、雨の後の草いきれも在る。
つまり 木々や草花の経路を通る事で我々が この星の一部である自覚、
すなわち エミリー・カーメ・ウングワレーの絵画から得た感動を
しっかりと自宅に持ち帰る準備をさせてもらえるというものだ。
唯一残念なことだったので敢えて記すことにする。
さて。
エミリーウングワレーは 【「オーストラリア大陸」と 西洋の獰猛極まる他民族を食い物にする人種(英国人)が
今のところ勝手に呼称している】南半球にあるほぼ楕円形の大陸に 先住していた民族を
代表する偉大なる生きた母性原理であり、閨秀画家である。もうこの地上時空にはいらっしゃらない。
しかし 憐れなる人類のために~千の風~になってくださっていることだろう。
文字を持たず、武器を持たない 民族は 絵と歌と踊りと信仰心だけで
余計な物を持ったり、身に着けたりしなかった。
これからご鑑賞される方のために 敢えて 申し上げておきたい。
『この宇宙の創造主か 地球という星が
エミリーいや カーメ・ウングワレーにアクリル絵の具とカンヴァスを持たせたのであって、
他民族を食い物にし続ける(現在はグローバルリズムを標榜し 日本人も食い物にされてしまった!)
英国系住民の罪滅ぼしの結果ではない』 という事を 心にしておいてほしい。
カーメ・ウングワレーは 既に木々の樹液や花々の汁で
亜麻布に素晴らしいボディデザインを描いていたのである。(ユートピアルーム・ブースに展示)
とはいえ 78歳でアクリル絵の具とカンヴァスに出遭った彼女は
自分が属する民族のためにだけでなく、自分たちを迫害し苦しめ続けた恥知らずの英国系侵略者を
含めた憐れなる産業革命以降の、最早 この星を滅ぼす種に成り下がった我々のために
絵筆を走らせ続けた。エコロジーやら京都議定書やらで 果たして人間が 産業革命以降
滅ぼした数知れない種たちからの怨念呪詛から そうやすやすと赦しを戴けるかわからないけれど
我われに残されているのは【エミリー・カーメ・ウングワレーを体験するか しないか】なのだ。
ピカソやダ・ヴィンチを観なくても 死ねる。フェルメールや若冲の現物を観なくても人生に差は無い。
しかし カーメ・ウングワレーの絵を体験した人生は 体験しない人生よりマシだろう。
雨のあと.jpg 
もしもあなたが 現物に接しようとするならば、特に涙腺の弱い方は 予め ハンカチをご用意ください。 
そして どうか 彼女のプロフィールやら説明文だとか英国系住民のくだらない論説などには目もくれないこと。
どうしても「知りたい」のなら 2500円もする展覧会カタログでも買って、館内にある有名なカフェで読めばいい。 
ただ 彼女の描いた【創造してやまない宇宙の意思は 造化の妙なる流れとして存在している。
それは 肉眼では見えないけれど とりあえず私が 肉眼でも見えるようにしておきましょう。
でも これらは 暗示ですよ】と語りかけてくる絵画を 体験することだ。耳目を奪われる感覚に浸ることだ。
細かく観ればピカソが晩年にようやく達した作為なのか無作為なのか判じ難い、線の出し入れの躍動は
明らかに絵画という平面・二次元空間に「時間」という流れを体感させるよう描かれている。
そして 星降る如し、ドット(点描)も又しかり。~『マトリックス』・・・Hhhhann?★×:*どうでもいいやあんなの!

抽象絵画ではない。現代美術の解釈もどうでもいい。ただ体験するしかない。
我々の思考と感情は 想念活動の一部でしかない。だのに 我々は思考と感情だけでこの星と大宇宙に存在できると思い込みすぎている。
カーメ・ウングワレーの画業は 思考と感情の他に我々人間誰しもが エーテル体やアストラル体と呼称しうる
造化の妙と繋がった、肉体とは別のボディを保有していることを 明らかにしてくれる。
しかもそれは 過去・現在・未来という時制感覚から 跳躍した感性でしか認識不能なのに・・・!
エミリー・カーメ・ウングワレーの画業は 暗示という制約つきながら しばし それらを認識させるフォースを放つのである。
ルドルフ・シュタイナーならば カーメ・ウングワレーを 見者=霊眼・霊耳を開示しえた人と認めるだろう。
妙法蓮華経の壮麗さに魅せられた経験をお持ちならば 彼女の画業に共鳴されるところ大であろう。
もしも体験できたなら あなたは まだ「エーテル体とアストラル体が健全にあなたとともに存在している」
そうでなかったら 思考と感情だけで 生息している可能性がある。まぁそれでもこの世でセレブぐらいにはなれるから
余り気落ちしなくてもよいかもしれない。
ヤムイモ.jpg
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会田誠と山口晃 アートで候展 [美術]

 上野の森美術館で開催中。
 6月19日まで!

山口氏の「すずしろ日記」を2003年だったかな?
東京現代美術館で観た際 漫画に転向しないでほしいなぁ~と思った。
サラサラと描いた自分の妄想を茶化した「すずしろ日記」は
大友克洋より巧かったから。しかし 当時から追究していた「現代の大和絵」は
ドンドン突き進んでいた。 実物をご覧になると 時間を忘れますよ。
僕の隣で観ていた西洋人カップルは 大笑いしたり 唸ったり凄かった。
両人とも目玉が飛び出そうだった。(是非 そういう風にして観るべし!)
線の繊細さとフォルムの正確さ ユーモア溢れすぎる仕草・・・。
建物でも動物でも人間でも手を抜かず こんなに集中力が持続すること自体
驚異的だ・・・。観ていて飽きない。かと思えば「四天王立像」などは
ハリウッドゲーム業界からSF系のキャラクターデザイン、衣装デザインの依頼が
わんさかきてもおかしくないほど カッコイイ!で 天晴れなほど綺麗である。
一方 会田氏だって 負けちゃいません。
ジューサーミキサー」という残酷でグロテスクなブラックユーモアを
ここまで丁寧に 精緻で 美しく描かれたら 見惚れるしかございませんな。
会田誠も 異常な集中力を持続し 美しい線とフォルムで見事に描ききる。
まぁ こういうおばかなモチーフを其処まで美しく丹精込めて描くか・・・と
しばし絶句する作品もある。しかも よく見ると息を呑むほど超絶技巧だったりする。

どちらも 芸大の日本画科と思い込んでいたが 油絵だった。
なるほどなぁ さすが 芸大だぁ と変な感心をしてしまった。
天国の六角堂で 岡倉天心は さぞかしほくそ笑んでいるだろう。
ある意味 お二人とも 横山大観より 偉大な画家・・・かもしれませんぞ!
かなり愉快で感動的な美術展であります。愉しかったぁ~!
関東ご在住の方々 是非お見逃し無く!

 小沢昭一さん(大・俳優!)の「日本は ナントカ大国ってのやめりゃいい」
という名言至言がございます。 でも「日本は 芸術家大国」かもしれませんよ。
「オタク主義」といいますか 江戸の根付職人の技も
「この異常な集中力の持続は なんなんだ!」と思わざるを得ないです。
ところが国家権力の方は それを目の仇にする・・・変な国なんだよねぇ。
国際的に通用する偉大な政治家とか軍人なんて一人も出せない国のくせに!
若冲 北斎  歌麿・・・と国際的に影響力の強い偉大な画家は結構いる。
溝口健二と小津安二郎は 映画監督だが 国際的な評価の方が断然高い始末だ。
内弁慶の三流政治家とか軍人や経済人は 内向きにえばりくさるだけの情けなさ。
我が国においては 画家をはじめとする芸術家を育てる懐の深い財界人も 昨今見当たらず
会田、山口御両人は 近々欧米またはアラビアやロシアの大富豪の深~い懐に抱かれて
しまうかもしれません・・・なぁ


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